福島県浪江町の請戸小、「激励の黒板」があった最後の姿

復興から取り残された校舎には、自衛隊員や警官らのメッセージが書かれた黒板、地震発生時刻で止まった時計などがありましたが、3月上旬までに町が搬出しました。

津波におそわれた請戸小1階の廊下に立つ小山智恵子校長(左)と横田裕之教頭=2月22日、すべて猪野元健撮影

東日本大震災の津波と原発の被害を受けた福島県浪江町の町立請戸小学校。メッセージが書かれた黒板などが搬出される直前、小山智恵子校長らの学校点検に同行しました。

被災した浪江町請戸地区。写真中央左の木々の向こうに東京電力福島第一原子力発電所。右端の建物が請戸小

請戸地区では請戸小や集会所などごく一部の建物以外は、津波で流された

請戸小は、海岸から約300メートル、東京電力福島第一原子力発電所から約6キロの場所にあります。東日本大震災では一階の天井まで津波におそわれ、原発事故の影響で町はまだ避難区域に指定されています。

復興から取り残された校舎には、自衛隊員や警官らのメッセージが書かれた黒板、地震発生時刻で止まった時計などがありました。町は3月末までに、こうした震災当時の状況を伝える計18品目を別の小学校で保存し、活用を検討していきます。 すでに音楽室のグランドピアノ以外は搬出されました。

2月22日、黒板などが運び出される前に、請戸小の小山智恵子校長と横田裕之教頭による月1回の学校点検に同行しました。

津波でガラスが割れ、昇降口のドアも流された校舎。外から入ってくる風は身を切るように冷たく、周りでがれきの処理をしているショベルカーの音が休むことなく響きます。鳥があちこちに巣をつくり、廊下や体育館にフンを落としています。

横田教頭は「5年の間に雨や潮風が入り、床や壁の劣化が進んでいます」。安全上の問題で、去年から立ち入りを禁じるロープを複数の場所に設置しています。校長室では、校長用の机や歴代の校長の写真はすべて流され、コンクリートがむき出しです。小山校長が仕事をするはずだった場所は、震災のおそろしさを伝える部屋になっています。

2階の教室の黒板前には、「落書き禁止」とありました。震災直後に請戸小に入った自衛隊や警察の関係者が書いた「天は乗り越える事の出来る試練しか与えない」などのメッセージが、請戸の人たちを励ましました。しかし、こうした激励が消されたり、関係のない言葉が書かれたりしたことから、町の教育委員会が去年夏に落書きを禁止したそうです。

請戸小を訪れた人たちの応援のメッセージは、教室の前にある1冊のノートにもつづられています。1ページ目の書き出しを読むと、ノートを置いたのは浪江町の人で、黒板の文字に対して「心のない方の行動」で胸を痛めたとあります。

1階の3年生の教室の黒板には、当時のクラスメートが去年10月に書いたメッセージが残されています。「また私たちの請戸に戻ってこよう。大切な思い出のつまったこの場所に。今を大切に前に進もう」。町はこの黒板は搬出の対象にしませんでした。

請戸小の昇降口。入口のドアやげた箱が津波で流されている

2階の教室の黒板は、保存のため搬出された。町が「落書き禁止」にしたのは、激励のメッセージが消されたり、関係のない言葉があったりしたからだという

教室前にあるノートには、多くの応援のメッセージがつづられている。黒板のメッセージが消されたことに心を痛めた浪江町民が置いたとある

音楽室のグランドピアノも保存のため、3月末までに搬出される予定。寄贈者は請戸地区に住んでいた男性で、震災の津波で87歳で亡くなった

5年前の卒業式で使われる予定だった体育館。「卒業証書授与式」の横断幕も搬出された

校長室に立つ小山智恵子校長。震災前、教頭として請戸小に務めていたこともあり、歴代の校長の写真や机があった場所まで細かく覚えている

調理室には、津波で流されたとみられる校内のさまざまな備品が積み上がっている

プールを点検する横田裕之教頭。普段はいわき市内の小学校に「兼務」している

今も残されている1階の教室の黒板。当時の3年生が昨年、訪れてメッセージを残した

大地震が発生した日、校舎にいた子どもたち約80人は先生たちの指示で高台に向かって逃げました。全員無事でした。原発事故の影響で浪江町に住めなくなり、全国各地にばらばらに避難しています。

請戸小は「臨時の休み」の状態が続いています。

教職員は10人いますが、福島県二本松市の浪江町小中学校事務局にいる小山校長だけが専任で、9人 はふだん別の学校で働いています。「子どもが戻ってくるなど、条件が整えばいつでも再開できる準備をしています」。

しかし、年月がたつほど住民は避難先での生活に慣れます。子どもの家はすべて流され、いまだに避難指示は解除されません。学校の再開は現実的には難しい状況です。

小山校長は震災5年を機に文集「うけど」を2月に発行しました。全国各地で暮らす震災当時の在校生に、今の状況を文章や写真で送ってもらい、まとめたものです。

小山校長は文集を作るなかで、「避難先が子どもたちのふるさとになっていくのだろう」と複雑な思いがありました。届いた作文を読むと、野球や吹奏楽に夢中になったり、請戸の伝統を守るために活動したりと、つらい経験をのりこえて前を向いていました。「成長していく姿に頼もしさを感じました。いつの日も応援しています」

教職員のげた箱には、当時の教職員の靴と、震災後に作られた鳥の巣があった

津波からの避難で、請戸小(奥)の教職員と約80人の子どもがめざしたのが高台の大平山。その場所の一部に町の新しい墓地(手前)がつくられた

浪江町の思い出の品展示場では、請戸地区のがれき処理などで出てきたものを展示。数は1万点以上。ぬいぐるみは迎えを待っているように見えた

子どもたちのランドセルやピアニカなども展示されている

2月6日に福島県郡山市で開かれた、請戸小の先生たちによるパネルディスカッション。津波から子どもたちを避難させたときのことや、防災の備えの大切さなどについて話し合われた

(請戸地区は避難区域です。請戸小学校に無断で入ることは禁止されています。地域や学校への立ち入りには、町と教育委員会の許可が必要です)

小学生の新聞「朝日小学生新聞」3月4日付の記事に加筆し、写真を追加しました。媒体について詳しくはジュニア朝日のウェブサイト(https://asagaku.com/)へ。

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