硬派スポーツ雑誌の元祖『Number』、文藝春秋から産声【創刊号ブログ#6】

創刊号からは、文春の並ならぬ決意の現れが感じられる。
たまさぶろ
たまさぶろ

単なる「雑誌好き」から、私は「創刊号マニア」かもしれない...そう考えるようになったのは、この創刊号を手にした時からだろうか。そんな思い入れがあるため、この一冊の紹介はもっと後まで温存しておこうと考えていた。

しかし、このブログも今後どう体制が変更になるか不透明のため、いきなりエース級を登板させる。

『Number』は現在も発行され続けているスポーツ雑誌である旨、解説の必要はないだろう。1980年4月20日号、『スポーツグラフィック・ナンバー』として創刊。

この創刊は同時代的に記憶に残っているために、ことさら思い入れが強い。中学3年になる頃、幼馴染のウチへ遊び行くと、壁にどでかく「Number 1」と記されたポスターが貼られ、それには王貞治が大きくフィーチャーされていた。もちろん「1」と言えば、想起されるのは王である。王は1979年、一本足打法となって以来、初めて打撃主要3部門のタイトルをすべて逃し、「晩年」という文字が頭をもたげて来るシーズンだった。

しかし、この「ナンバー1」のキャンペーンポスターは、特大であり、ポスターの中の王からは、鬼気とした迫力さえ感じられ、圧倒された記憶が残っている。なにしろ1978年のシーズンには前人未到の800号本塁打を達成したばかり。「まだまだ王はやれるに違いない」と昭和の中学生に思わせるのは十分だった。余談だが、私は王の799号ホームランをこの幼馴染と後楽園球場の外野スタンドで目撃している。

結局、王は1980年のシーズンを最後に現役引退。その記憶とともにナンバーの創刊も記憶に留まり続けていた。

発行人・編集人は岡崎満義。初代編集長である同氏は京都大学卒。『文藝春秋』、『週刊文春』などを経て、本誌で初めて編集長を務めた。文藝春秋社では常務、専務、副社長を歴任。退任した現在でも同誌WEBに寄稿するなどスポーツの論客ぶりを見せている。

創刊号には時折、「創刊にあたり」など決意表明が掲載されているケースも見られるが、本誌では目次の後、7ページ目にほぼ1ページを割き、岡崎のメッセージを掲載している。文春の並ならぬ決意の現れでもあろう。

創刊時はアメリカの『スポーツ・イラストレイテッド』誌と提携。「スポーツを写真で見せる」というそれまで日本にはなかった共通項を顕著に押し出している。

ポスターのイメージが強すぎたのか、私は長らく創刊号の表紙も王貞治だと思いこんでいた。ご覧の通り、ちょっと腰砕けになるようなサイバーパンク的なイラストなのが、この創刊号における唯一の不満だ。もっとも「サイバーパンク」の旗手とされたウイリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』が出版されたのは、1984年であることを考えると、この表紙デザインは当時、最先端の文化...と考えるべきなのかもしれない。

巻頭は、スポーツ・イラストレイテッド出身のカメラマン、ニール・ライファーが収めた歴史的なスポーツ写真からスタート。モハメッド・アリが1966年、クリーブランド・ウイリアムズをKOしたシーンを天井のカメラから収めた一葉などスポーツ史を知る上で貴重な作品ばかりが並ぶ。

特集「中国に暴走族はいるか?」を寄稿しているのは芥川賞作家・丸山健二。こうした書き手のラインナップは、同賞を主催している文春ならでは。また故・山際淳司の手による「江夏の21球」は日本スポーツルポ史に残る傑作として知られる。創刊号からして、こうしたストーリーを産み落としてしまうあたり、さすが文藝春秋社。「文春砲」ばかりで話題をさらう今とは、時代も出版社も違う。創刊にあたりTV CMもオンエアされていたが、このルポのせいか、王ではなく、江夏が起用されていたと記憶している。

50ページ目からは、期待された王貞治のインタビューが「39歳11カ月 熱いスウィング」として掲載されている。王貞治というと、どうにも雲の上の存在と考えがちだが、このインタビューを読み込むと引退間際の王の苦悩が生々しく表現されている。

この年は「ドカベン」が南海ホークスに入団。今は亡き、香川伸行の初々しいルーキー姿のルポも目を引く。もっとも「ランニングとセックスの熱い関係」、「バスト社会学の研究が緊急課題!?」などという特集も組まれているのは、前時代における愛嬌としておこう。

現在発行されている本誌ももちろん読み応えはあるが、創刊時はモノクロ・ページが主流のため、より「読み物」雑誌として仕上がっている。

興味深いのは雑誌タイトル。表紙の題字をご覧頂きおわかりになる通り、私は『Number 1』までが雑誌名だと思いこんでいたのだが、『Number』が誌名であり、後ろの数字は発行号数だった。正式名称は、『スポーツグラフィック・ナンバー』。現在はこの号数は小さめに表記されているので、誤解を招くことはない。『Number 1』のほうがインパクトは強かったのになぁ...と少々ぼやく。実は毎号「Number 1」、「Number 2」、「Number 3」と数字を含め雑誌名としたかったらしいが、登録商標として認可されなかったという裏話を後日、耳に挟んだ。

いつも通り広告についても眺めておこう。表2は見開きで、サントリー缶ビール。後に「ペンギンズバー」なるサントリーのチェーンが出店される時代が来るが、この当時からペンギンをモチーフに使用していたことがわかる。ウチの父も同様だったが当時は「缶ビールは缶の味がするので邪道。男は瓶ビールだ」という時代だった。がゆえに、わざわざ「缶ビール」をアピールする必要があった。

表4は日本航空。「自分でルートを企画できる海外旅行」とタグラインがある。今となっては当たり前の旅行スタイルだが、当時はまだまだ海外が遠い時代だったことがわかる。もちろん、昭和の少年にとって、海外などは夢の世界でしかなかった。表3は見開きで「ジャーディン」が代理店を務めているスコッチ・ウイスキー「ホワイトホース」広告。突然、BAR評論家の立場に戻って言うと、この頃のホワイトホースは本当に美味い。

その前のページには「三菱銀行」カードローンの広告。なんと「最高10万円」までカードローンを使用できるという売り文句。行名といい金額といい、48年の歳月を感じさせる。

実は創刊から最初の10年は赤字だったという噂もある。しかし、Jリーグの開幕などの後押しを受け、その存在を確立。1990年代の最盛期には50万部に近づく勢いだった。雑誌の定番となった同誌の成功には、他出版社も目をつけていた。

2002年には集英社の『Sportiva(スポルティーバ)』(2010年で定期刊行を休止)。サンスポは1999年から『ゼッケン』を創刊するが同年中に休刊させ、2000年9月から角川書店と共同で『Sports Yeah!(スポーツヤァ)』を発行。これも2006年12月をもって「廃刊」となっている。最後発は光文社の『VS(ヴァーサス)』。2004年10月に創刊され、2006年6月で休刊されたが、個人的にはこの雑誌がもっとも読み応えがあったと考えている。

結果から眺めると、スポーツ誌はNumberにより始まり、Numberだけが生き残っている。 平成も終焉を迎える今、スポーツの媒体は、各スポーツ新聞のWEBサイトに加え、SportivaがWEB媒体として生き残っているように、Yahoo!の「スポナビ」やgooの「アスリート・チャンネル」などのように、今後はインターネット・プロトコルを介したメディアとして続いていくのだろう。

スポーツの「読み物」雑誌がなくなるのは、スポーツ・ソリューションの専門家としても、いち書き手としても寂しい限り。せっかく来年はラグビーW杯が日本で開催され、2020年の東京オリパラと続くだけに、気骨のあるスポーツ雑誌が登場しないものかと考え込む。

そうでないのなら、今後も『Number』の孤軍奮闘を期待するしかない。

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