昭和四十年男の必需品、最後発FM誌『FMステーション』開局 【創刊号ブログ#7 後編】

昭和の時代、少年の小遣いは月に5000円程度。レコードは2500円もした。その一枚に対する思い入れたるや、とても今の世代には理解されないだろう。
たまさぶろ
たまさぶろ

前編から続く>

創刊から9年後の1990年、私自身がFMステーション編集部員として勤務することになった。それにしても編集職の領域では、編集者のことを、なぜ「編集部員」と呼ぶのだろう。時としてその部署は、一般の会社の「部」単位ではなく、部長さえ存在しないケースが多いのだが...。

創刊号と比較すると、私が編集部に加入した時期には、巻頭にミュージシャンのインタビューが増え、ライブやCDのレビューのボリュームが大きくなってはいた。それでも創刊号のフォーマットの大部分は健在。

おかげでFM番組表をまるっと担当させられ、「キャッシュ・ボックス・チャート」も自身のページで、「WHO'S WHO」も割り当てられていた。1990年は、ローリング・ストーンズとポール・マッカートニーが初来日公演を敢行。11月には、今上天皇即位の礼が取り仕切られた、すべては平成2年の出来事だ。平成最後の年に振り返ると、より感慨深い。

FM番組のパーソナリティをインタビューする「山内トモコのトークタイム」がスタートしたのも、この時期。同誌の最長寿連載となり、その大半は自身が担当だったため、相当数の「パーソナリティ」にお会いしたことになる。

パーソナリティで思い出したが「エフステ」は創刊当時からFM東京に「マイ・サウンド・グラフィティ」という45分の冠番組を持っていた。毎回、その月に発売された、主に洋楽の最新アルバムを紹介したので、カセットテープに録音した昭和の少年は多かったはず。私もそのひとりだ。「エッフエーム・ステエエエション♪」というジングルを覚えている方も多いだろう。

このパーソナリティを担当していたのが、ウイリアム・ジャクソンと大橋俊夫。しかし、同番組は1989年に終了してしまい、この2人にインタビューすることができなかったのは、私個人として残念だ。社を辞し、25年が経った今もその機会に恵まれずにいる。

ギタリストの是方博邦が講師を務める連載も、担当として詰め込まれた。私が同誌を辞す前、彼と一緒にまる一日ロングランにおよぶ飲み会を開催したのも酔い思い出だ。

年末には恒例の企画があった。「90人が選ぶ1990年のベストアルバム」というその年数にちなみに読書投稿型でベストアルバムを選出する、なかなか凝ったページだった。もちろん、1991年には「91人が選ぶ...」、92年には「92人...」と変遷して行く。編集部員もこの選者に含まれていたので、毎年自身の好きなアルバム5枚を選ぶのは、楽しい作業だった。同じく読者投稿による「好きなアーティスト嫌いなアーティスト」は、現在の炎上商法マーケティング的な側面が滲み出てしまい、誌面上で読者同士の諍いに発展するなど興味深かった。

造り手として、こうしたわくわく感満載の企画に没頭していたので、音楽誌にはまだまだ将来性がありそうな気がしていた。しかし90年、FM誌の落日がすでに始まっていた事実には、誰もが気づいていた。

アメリカン・テイストをFM誌に持ち込んだエフステとしては皮肉なことに、まさにアメリカ的なFM局の隆盛がその要因だ。1988年に開局したJ-WAVEのようにトークが極めて少なく、淡々と楽曲がオンエアされる...事前にオンエア・リストなど「開示しない」まさにアメリカのスタイルは、FM誌の存在意義を問う事態を招いた。

オンエア曲が開示されないとなると、番組表の価値は下がるばかり。FM各誌そろってその存在感は凋落の一途をたどり、インターネット時代の到来とともに、それまでのオンエア情報などは一気に陳腐化した。

『週刊FM』はその波にもっとも早く飲み込まれ1991年に休刊。続いて『FMレコパル』が1995年に。エフステでも「番組表をなくし、リニューアルするしかない」という話が何度も持ち上がった。「じゃぁ、誌名も『CDステーション』とかになるのかね?」なんて話題で何度呑んだことか。

しかし、そんなドラスティックなリニューアルの姿を見ることもなく番組表だけを削除した同誌も1998年に「休刊」。最古参の『FMファン』も2001年で終了した。今日、「FM誌」は無念、一冊も現存していない。

こうしたFM誌の盛衰については、前編にも登場した恩藏茂による著作『FM雑誌と僕らの80年代』に詳しいので興味のある方はご参照のほどを。創刊号で編集人を務めた高橋は、この著作で「ボス」として登場し、主な登場人物もイニシャルばかりで、内情をする者としては若干興ざめではあるものの、出版人としては参考になる。

私にとってFM誌が隆盛を誇った80年代にティーンエイジを送れた事実は、自身の宝だったのだろう。17年にわたる同誌の歴史の中で、ほんの数年に過ぎないにせよ、エフステ作りに携わった経験は、現在に至るまで、貴重な経験となっている。原稿には起こせない多くの出会いについては、感謝しておくべきだ。

平成が終焉を迎える現代のティーンエイジャーたちは、レコードもCDも保持せず、FMから録音もせず、気になる曲はyoutubeでチェックし、勝手にダウンロードするだけ。楽曲にかける単価も信じられないほど低くなった。

昭和の時代、少年の小遣いは月に5000円程度。レコードは2500円もした。月にレコードを1枚購入すれば、手持ちの半分を投資することになる。失敗は許されないだけに、FMで入念にチェックし、その月のお気に入りとしてレコードを手に入れたもの。その一枚に対する思い入れたるや、とても今の世代には理解されないだろう。

FENでチェックした曲を「レコード屋」に買いに行くと「そんな曲はない」と一蹴されたことも多々。当時はアメリカのミュージシャンの曲は、日本でリリースされるまでにひと月ほどタイムラグがあった。現代のようにインターネット・プロトコルを介し、世界同時リリースされる時代とは、間違いなく「世紀」の差異がまたがっている。

それだけ音楽に対する努力も思い入れもない時代、楽曲はただ消費されるだけの代物に成り下がった。2018年、映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットするに至ったように、同世代共通の神のようなミュージシャンは今後、音楽業界から輩出されることはないだろう。

エフステのおかげでずいぶんとFM業界にはお世話になった。FM802の栗花落・現社長もそのひとりだ。また、現在同局でパーソナリティを務める浅井博章は学生時代、エフステでアルバイト勤務していた。私にとってはいつまでも「浅井くん」なんだと記すと、怒られるだろうか。雑誌、テレビ、新聞、ラジオ、ネットというメディアの中で、唯一自身が制作に関与したことがないラジオではあるが、業界に精通しているのは、エフステのおかげ。カメラを学び始めたのも同誌時代。私が撮影したカセット・レーベルをここに掲載しておく。まだ、基礎がなっていないので、構図に難点があるのはご愛嬌。

なお、エフステ配属にあたり、最終面接者が創刊編集人の高橋だったことは鮮明に記憶している。高橋はその後、文藝春秋が1991年にリリースした雑誌『サンタクロース』、毎日新聞が2001年に創刊した『ヘミングウェイ』などの仕掛け人でもあった。残念ながら編集人としてエフステ以降はヒット作を生み出していない。「エフステ」を読んで過ごしたティーンエイジャーとして、FM誌の消滅は、いち時代の終焉だった。

前述した恩藏の著書に「僕らの80年代」とはあるものの、当時すでに30歳を過ぎていた彼らの世代に80年代を語られるのは「Don't trust anyone over thirty」の言葉を知る世代として、どうにも腑に落ちない。「80年代」については、ジョン・レノンの死によって1980年代の幕開けにショックを受けた中学3年、ベルリンの壁の崩壊により1989年を見送った「昭和40年男」、つまり我々の世代こそが語るにふさわしいの思うのだが...。

前編から「恩藏、恩藏」とかつての上長を呼び捨てにするのは中々しのびない。ましてや、毎晩のように下北沢駅踏切付近の「すし処 澤」という店で、美味い寿司をご馳走になっていた部下としては申し訳ないばかり。しかし本シリーズでは「木滑」と敬称無なしで通してしまった手前、自身の上司だけ敬称をつけるわけにもいかんのでご了承を。

時代は変わり、当時の澤の大将は「鮨 福元」というミシュラン星店を経営している。

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