出版社系初の週刊誌誕生、『週刊新潮』は今日も発売中です【創刊号ブログ#8】

出版界において山ほどの創刊と休刊が繰り返される中、60周年を過ぎ、なお編み続けられる『週刊新潮』に感心するばかり。
雑誌週刊誌の両雄として君臨する『週刊新潮』
雑誌週刊誌の両雄として君臨する『週刊新潮』
たまさぶろ

「創刊号マニア」を自称しておきながらも、自身が生まれる前の雑誌はそうそう所持してはいない。そもそも生まれていないので購入することができないのだから致し方あるまい。

そんな中、ちょっとした自慢が『週刊新潮』の創刊号。

『週刊文春』と並ぶ出版社系週刊誌の両雄だけに、手にしたいと考えていたものの、そう簡単に転がり込んでは来ない。2016年2月22号『週刊新潮』は「創刊号完全復刻版」を付録としており、こちらを眺めては感心していた。

しかし昨年、私自身が同誌から取材を受け、ほんの一段のさらに半分程度とは言え顔写真付きで掲載されるという縁を頂いた。連絡を受けた担当編集者に「御誌の創刊号を探しています」とこぼしたものの、もちろん降って湧くわけもない...。そう思っていたら、それからひと月もしないうちに、さした値段でもなく古本で出回っているのを発見。即、入手した。縁とは不思議なものだ。

創刊号は1956年2月6日発売。「2月19日創刊号」。発行元はもちろん株式会社新潮社。定価は30円。出版社初の週刊誌。それまでは新聞社系週刊誌のみが市場に出回っていた。『週刊文春』の創刊は1959年を待つ。編集兼発行人は佐藤亮一。

佐藤は新潮社の創業者・佐藤義亮の孫。創刊当時は2代目社長、父・佐藤義夫に次ぎ、副社長を務めていた。のち67年に3代目の社長となり96年から会長職となる。新潮文庫の奥付に記されていた名前として記憶にある方も多いだろう。

創刊時から編集長は佐藤亮一だったが、同誌には斎藤十一という名物編集者がいた。氏は同誌を牛耳り、「週刊新潮の天皇」とも呼ばれた。出版業界では、後に写真週刊誌『FOCUS』を企画したことでもその名を知られている。

創刊の1956年2月と言えば、終戦から10年と6カ月。この年、日本は国連に加盟し国際社会に復帰。気象庁が発足、大阪、横浜、神戸、名古屋、京都が初の政令指定都市となり、通天閣が再建された。東京タワーも新幹線もまだない。戦後二十年という節目に生まれた私にとっても「前の時代」だ。

表紙のイラストは当然、谷内六郎。1981年に急逝するまで、牧歌的な作風のイラストは、俗物的な社会風刺をポリシーとする週刊誌にとって、一縷の良心のように思われた。「しゅうかんしんちょうはあすはつばいです」という子供の声を活かしたCMとともに、昭和の風物詩だ。

創刊号表紙には「上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」との一文が掲載されている。この一文は、のちの同誌の表紙にはない。「ROKU」のサインは健在。

表2の広告はモノクロ。上下に分かれ、上段が住友海上火災、下段が三共株式会社の「新感冒錠ルル錠」、50錠で220円とある。この季節、頻繁に目にする「ルル」のCMは、この時代から存在したわけだ。表3表4とも広告が上下二段に分かれているとは、現代の編集者にとってはちょっとした驚きだ。

表2の対面からモノクロ・グラビアが始まり、タイトルは「東京のサラリーマン」。髪は七三に黒コート、その多くはメガネを着用したサラリーマンが東京駅の階段を埋め尽くしている。撮影は井草幸司。サラリーマンはすでに昭和30年代から痛勤にもまれ搾取される対象だった...そう印象づけるような一葉だ。21世紀になっても、平成が終わっても、労働者の生活に変わりはない。

目次は9ページに差し込まれているが、申し訳なさそうに下四分の一段に押し込められている。上三段は「人と職業」と題し、国鉄が昭和二十五年から特急つばめに登用「列車給仕」ミス・ツバメの岡千恵さんを取材している。その右ページは岡さんが働く模様を切り取ったグラビアだ。目次は1ページまるまる使うものと思い込んでいたが、黎明期の週刊誌はそうではなかったわけだ。

目次は、表紙「上総の町」に続き「オー・マイ・パパに背くもの」と題し「父と子のモラル戦後版」を特集に持って来ている。その後に短いルポが7本並ぶが、その総称が「週間新潮欄」とされている。この「週間」は誤植なのか...と思い悩む。が、本文を読むと、そちらも「週間新潮欄」と題されているので、そうではないようだ。

週刊新潮創刊号のメインは同社お得意の小説。「三大連載小説」と題し「鴨東綺譚」谷崎潤一郎、「柳生武芸帳」五味康祐(示偏の旧字)、「おかしな奴」大佛次郎の三本があり、さらに「青い芽」石坂洋次郎、「目白三平の逃亡」中村武志と計5本もある。

晩年の谷崎が週刊誌に連載を持ったというのは、それだけで興味深い。しかも、本作のモデルとされた女性から物言いが付き、連載6回で打ち切り。谷崎の幻の作品のひとつとなっているという逸話まである。全集にも収められていないため、同誌創刊号復刻版は谷崎研究家にとっても貴重な機会だったと言う。

目次では「タウン」という括りで、のちの「ぴあ」のように映画や演劇などの情報も掲載。

なんと私が昨年、同誌に掲載された「掲示板」というコーナーは、創刊号にもある。創刊号から続く企画に掲載されるとは、なんと名誉な! しかもこのコーナーに登場する第一号は谷崎。さらに三島由紀夫、小林秀雄、湯川秀樹...と錚々たるメンバーが続く。いや、これは私もいずれ巨匠と呼ばれる日が来る...と夢を見てもよいかもしれん!

さらに広告を眺めよう。中綴じのセンターは、ヤマサ醤油の見開きカラー広告。犬吠埼のイラストが、どーん!と展開されている。その前後には「キヤノンカメラ株式会社」、「御木本真珠点」とカラーで1ページずつ展開されている。

モノクロの表3は、上段が株式会社宮入菌剤研究所の「ミヤリサン」という胃腸薬。現・ミヤリサン製薬。下段は木村製薬の殺鼠剤「デスモア」の広告。こちらは現・アース製薬だ。表4、つまり裏表紙はカラー。上段が「東芝のマツダラジオ」。マツダなのか東芝なのかはっきりして欲しい。しかも、このラジオの価格が19,900円。週刊誌の660倍余の値段。現在、同誌は420円ゆえ、同換算を施すと約28万円のラジオという価値になる。いやはや。

下段は小西六。のちに「コニカ」となり、現在のコニカミノルタになる。2万4300円の「写真機」広告だ。こうした時代考証が可能な印刷物は平成が終わり、ますます希少になって行くに違いない。

同誌の販売部数は約28万5000部(2016年9月ABC調べ)。出版界において山ほどの創刊と休刊が繰り返される中、60周年を過ぎ、なお編み続けられる週刊誌に感心するばかり。「おそらく」という注釈付きながら、世の中に雑誌が存在する限り、最後まで発行され続けられる一冊だろう。しかし、出版社の元社員としては、そんな時代がやって来ないことを切に願う。

余談だが私の就職活動中、第一志望は新潮社、続いて岩波書店...だったと記憶している。実は旺文社からも内定を頂いたが、お断りした。その理由のひとつは、神楽坂駅で降り、第一志望だった新潮社の前を通過し、その奥にある旺文社まで毎日、通勤したくなかったから。旺文社には、この場を借り今一度謝っておきたい。新潮社が第一志望となるに至った雑誌の創刊号を次回、取り上げる。

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