もういい加減、ノマドのその先に行かないか?

「ノマド」――昨今、その言葉に新しい働き方の時代の到来を感じた者もいれば、その実態を大いに疑問視し、単なる流行りスタイルと捉える批判も吹き荒れている。だが、ノマドを巡る論争は、もうそろそろどうでもいいのではないか? というのが私の考えだ。

「ノマド」――昨今、その言葉に新しい働き方の時代の到来を感じた者もいれば、その実態を大いに疑問視し、単なる流行りスタイルと捉える批判も吹き荒れている。

だが、ノマドを巡る論争は、もうそろそろどうでもいいのではないか? というのが私の考えだ。

2011年の約1年間、私は自らの生活を実験台にして、家と家財を捨て、主にソーシャルメディアの縁を使って、巨大なコンビニのように何でも揃った都市の恵みをシェアし、働きながら旅して暮らす「ノマド・トーキョー」という私的プロジェクトを行った。

シェア、ノマドワーク、コワーキングなど、近年見聞きした新しい概念を自分の身体をねじ込むように実体験して、「ぶっちゃけ本当のところはどうなのだ!?」と確かめたいと思ったのだ。

だが、その興奮は冷めていくことになる。

もちろん、この年の3月に起こった東日本大震災の影響は大きかった。自分の意思とは何ら関係なく何万人という方々が難民状態になった中で、「自ら家を捨てて実験しているんです」など、到底言えなかったのである。

そして、ノマドという言葉だけがひと歩きして喧伝されていった。「MacBook Airでカフェでノマドな自由な働き方」うんぬんといったファッション化の側面だけが取り上げられ、プロフェッショナルに本来必要な専門性、スキル、経験が抜け落ちた安易な若者の現実逃避と捉えられ始めた。

永らく日本経済と国民の生活を支えてきた製造業を中心とする大企業神話。そして、そこにいったん就職すれば、結婚相手から老後まで面倒を見てくれるという「大企業社会主義」。その牧歌的な時代は過ぎ去ろうとしている。

毎日のように中高年のリストラのニュースが流れ、若者たちは入った会社を3年で辞めていく。そして、ここ2年ほどは改善されたものの、リーマン・ショック以前までは回復していない新卒学生の就職難。さらに、就活に挫折した学生の自殺者が増加しているというニュースは痛ましいとしか言いようのないものだった。

ノマドは、レールからはじかれてしまった人々の、もしくはそこから離脱しようと試みた者たちのサバイバルの模索の一つだったと思う。起業のリスクは、日本では非常に高い。一度脱サラ、起業に失敗し、個人資産まで担保として押さえられてしまっては、敗者復活戦はなかなか用意されない。

だからこそ、スモールにはじめること。見栄を張ってテナントを借りて事務所を構える。いきなり従業員を雇うのではなく、場所や所属に関係なく、ソーシャルメディアなどの「民主化された無償ツール」を駆使して、つながりの中からビジネスの種を育てていく。それは、大量生産・大量消費を前提とし、莫大なコストをかけ、莫大な利益を上げることを使命とする企業人の考え方とは異なるかもしれない。しかし、その萌芽はいくらでも私たちの足元に転がっている。

私が東京限定の旅暮らしをしてみようと思った理由も実はそこにある。密林や秘境に訪れなくても豪華な世界一周をしなくても、エキサイティングなものは私たちの日常、生活のそこここにある。常識という色眼鏡をかけていると、それに気づかないだけなのだ。

私が「ノマド・トーキョー」を経て出逢ったのは、自分たちの仕事や暮らしを文字通り、DIYしている人々だった。彼らは、マスメディアの情報を鵜呑みにすることもなく最新の情報に目を通し、使えるものは使い、お金の重要さも十分に知り尽くした上で、自分らしい人生や生活を手でこねるように、それこそ、デザインしている人々だった。

彼らは、大きなものに依存することよりも個人の主体性を大切にし、コツコツと心身の健康と経済を維持するセーフティ―ネットを自らつくりだしている。まるでカンブリア紀の生命の爆発のように。同時多発的に日本中で起こっているこの動きを「ライフデザイン」と名付けてみた。

ダーウィンの進化論的に言えば、生き残るのは強者ではなく、環境の変化に適応し続けることができる者である。

ノマドやコワーキングも流れゆく言葉であるし、ソーシャルメディアやスマートフォンなどのツールもまた、時代とともに、テクノロジーの進化とともに移り変わっていくだろう。使えるものは賢く使い倒す。何よりも大切なものは、私たちのリアルな仕事であり、生活である。

そして、私はノマドを語ることで会社員を否定する気は毛頭ないし、フリーエージェント的な生き方が天国だとも思わない。日本人の就労人口の8割以上は被雇用者であり、自然の生態系と同じように関係性の中で持ちつ持たれつ生きている。フリーランスは優秀な会社員がいるからこそ、仕事にありつける。

しかし、会社からの報酬以外にも、ソーシャルキャピタルなど、私たちを支えてくれるものはいくらでもある。会社員というペルソナ以外にも、多面体な自分とそこからつながる縁が補助線となって、いざというときに助けてくれる。ボランティアやNPOなどの非営利の活動など、仕事以外でも人は才能を活かせるし、仕事で得たスキルや経験をそうした非営利の活動に還元することもできる。

大きな変化の時代には痛みが伴う。しかし、大いなる実験もまたできる時代でもある。これは幻想だろうか? 幻想と捉えてしまえばそれですべては終わる。変化に気づき始めた人々はすでに行動に出ている。何より、多様な働き方、暮らし方を、これから各人が模索し、楽しんで行っていくことだ。

もちろん、多くのトライ&エラーが繰り返されるだろうが、これは政治運動でも社会変革でもない。自分たちらしく生きたいと身の回りの現実から始める、個人個人の小さな革命だ。

瑣末なノマド論の向こうの、悲観でも楽観でもない働き方や暮らし方の可能性に多くの人が目を向けてほしいと願う。

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以上、「ハフィントン・ポスト・ジャパン」への初めての寄稿ということで力説してみたが、ハフィントンの記事は「ブログ」なのだから、もし今後も記事を書く機会をいただけるなら、普段の一人称の「僕」で書かせていただきます!

最後に「ライフをデザインするなんて、具体的にはどうやるんだよ!?」という声もあるかと思いますが、それは『僕らの時代のライフデザイン』(ダイヤモンド社)という本の中で28人もの事例を挙げて書かせていただいているので、興味を持った方は読んでいただければ幸いです。また、現在進行形としても、自分たちの働き方や暮らし方を自由にしなやかにDIYし、生きることそのものを実験している人々「ライフデザイナー」への取材を、「トーキョー遊動日記」というメルマガで続けていますので、よろしくお願いします。宣伝チックになってすみません!!

最後に、松浦編集長、松本香織さんをはじめとするスタッフのみなさん、オープンまことにおめでとうございます!

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