ポスト・トゥルース時代にメディアは何をすべきなのか。

私たちを取り巻くメディア環境はかなり変わった。

きっかけは2002年、イラク武装勢力によって日本人3人が拘束された「イラク日本人人質事件」だった。カタールにあるアルジャジーラ・テレビに間借りしながら2週間にわたって取材をした際、お世話になったアルシャイーク報道局長から連絡があり、私は2004年7月に開催された「イラク戦争報道」をテーマにしたアルジャジーラ主催の国際会議に参加した。全世界のジャーナリストが集まったその会議でもっとも印象的だったのが、会議も後半にさしかかったころマイクを持ったアメリカのFOXニュース記者の質問だった。

「おまえたちは毎日嘘ばかり垂れ流しているじゃないか」

彼はステージ上にいるアルシャイーク局長に噛みついたのだ。世界同時多発テロ以降、ブッシュ政権を支持し続けていたFOXにとって、中東側の立場から情報を発信し続けるアルジャジーラは目障りだったのだろう。挑発的にアルジャジーラの報道批判をするFOXの記者に対し、アルシャイーク局長はこう答えた。

「真実というのは、人種、価値観、文化的背景で姿を変えます。いったい何が真実なのか。それならば、ひとつの意見には、必ず別の意見があるということを伝え続けるべきだと考える。それが私たちの報道姿勢です」

その時、会場全体から大きな拍手が沸き起こった。世界中から集まったジャーナリストが賛同したものが「異見」だった。

この時のことを私は最近、よく思い起こします、と私はドキュメンタリー映画監督の森達也さんに語った。今月発売された角川書店の「本の旅人」で、森さんと2時間近くにわたり対談をしたときのことだ。フェイクニュースとメディアの問題をテーマに、何が「フェイク」で何が「トゥルース」なのか、「ポスト・トゥルース」と言われる時代に、我々報道する側はどう対応していくのかについて議論したのだが、その中で森さんの指摘が興味深かったのだ。

「・・僕がもうひとつ懸念しているのは、フェイクという概念が強くなることで、これに対峙するトゥルースの概念もまた強くなることです。(中略)だって、トゥルースも実は相当に危ないと思う。だってトゥルースは相対的な概念だから。ニーチェの言葉を借りれば『事実はない。あるのは解釈だけだ』ということです」

まさに「異なる解釈―異見―を伝え続ける」ことに世界中のジャーナリストが賛同した国際会議から13年がたち、私たちを取り巻くメディア環境はかなり変わった。個人が玉石混交のありとあらゆる情報にアクセスできるようになった時代、アルゴリズムというネットの特性によって、自分の画面にまるでAmazonで購入した商品のように似たような視点の情報ばかりが上がってくるようになり、ニュースまでもがカスタマイズされるようになった。まるでタコツボのように自分好みの、心地の良い「トゥルース」に埋没してしまいそうになる。

アメリカの大統領選挙やイギリスのEU離脱に見られたように、明らかなデマのみならず、異見をも「フェイク」と表現する「タコツボ化」は社会を大きく変える力を持つまでになった。もはや、既存メディアが「公正公平」を旗印に「異見」だの「トゥルースと思われるもの」を提供したところで、視聴者や読者は離れていくだけなのだろう。

ではいったいメディアは何ができるのだろう、という問いの中で、ハフポストはいち早く、「プラットフォーム」という考えを取り上げた。一方的に情報を発信するだけではなく、メディア自らがテーマを掲げて議論の「プラットフォーム」になり、テーマにそって読者が能動的に発信したり、あるいは「異見」にアクセスできる「場」の提供者になろうという試みである( #ladiesbeopen#だからひとりが好き )。もしよければ、ぜひ参加していただければ。

さらにいえば、この発想を展開することで既存メディアも変わっていくことができないものか、あれこれ思い悩んでいる。

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