アニメは現実を侵食したりはしない。理想を、願望を、浸食する

コンテンツと現実の区別をつけるのは簡単だが、コンテンツ越しに浸透してくる理想や欲望をブロックしながら楽しみ続けるのは簡単じゃない。

世の中には、アニメやゲームの影響を過大評価する人がいる。曰く、「アニメばかり見ていると現実を見失う」「ゲームばかりやっていると現実とゲームの区別がつかなくなる」etc……。

だが、現実とコンテンツの区別がつかなくなる人ってそんなにいるだろうか? アニメやゲーム、テレビドラマなどを観ていて、自分自身をヒーローやヒロインだと勘違いする人・自分も同じことが出来ると思い込む人は、ほとんどゼロに近い。もし、そういう人間がいたら、そいつは何を観ても強い影響を受けてしまうような、心の壁の脆い人間だろう。この場合、コンテンツの内容以前に、その個人の稀有な被影響性をこそ問題にすべきだ。

それでも私は、コンテンツによって人間が影響を受ける領域はあると思う。

それは「理想」や「願望」や「欲望」の領域だ。

たとえば80年代~90年代にかけてはトレンディドラマが流行した。当時の若者達はドラマの描写をありがたがり、これこそあるべき恋愛の姿、理想的なライフスタイルだとみなした。雑誌類からの援護射撃も手伝って、日本全国の男女交際のテンプレートが塗り替えられていった例と言える。

アダルトビデオも、負けず劣らず影響を与えた。どのような性行為が理想的なのか。どのような性行為を欲しがるのか。そういった欲望のテンプレートづくりに、アダルトビデオというメディアが与えてしまった影響は小さくない。男性性欲の欲望のテンプレートは、地域の年長者の経験談なものから、アダルトビデオ的なものへと変わっていった。

同じような理屈で、昨今のコンピュータゲーム・ライトノベル・アニメなども、若者の男女交際やライフスタイルの望ましいイメージになんらかの影響を与えていると推測される。たとえば最近の深夜アニメでは、同級生が集って部活動を頑張る様子や、ひとつの目標に向かって皆が力を合わせるさまがしばしば描写され、これがアニメファンに喜ばれている。そういったアニメをありがたく視聴しているうちに、あるべき理想の姿、憧れたい人間関係の姿が、だんだん作品寄りになってしまっている、ということはないだろうか。

コンテンツと現実、二次元と三次元の区別がつかない人はほとんどいない。だが、従来のパターンを踏まえるなら、架空のコンテンツが浸食するのは現実検討識の領域よりも、理想や願望の領域、欲望のかたちの領域である。アニメやゲームの描写と現実を区別できなくなる人は滅多にいないが、アニメやゲームを楽しんでいるうちに“あるべき理想像”を浸食されてしまっている人は案外多いのではないか。

だから、昔は「ぼっちっぽい」アニメやゲームを観ていた人でも、『この素晴らしい世界に祝福を!』だの『ガールズアンドパンツァー』だのを観ているうちに、「かくあるべき理想」が少しずつシフトして、群れる若者――最近のネットスラングで言うなら「ウェーイ」や「ウェイウェイ」――の方向にズレていった人は少なくないのではないだろうか。

実生活では人間関係を疎ましく思っている人でさえ、若々しいキャラクター達が群れて頑張っている姿に憧れていれば、あるべき理想のかたち・あるべき欲望のかたちは、そのような方向性に傾いてしまう。コンテンツと現実の区別をつけるのは簡単だが、コンテンツ越しに浸透してくる理想や欲望をブロックしながら楽しみ続けるのは簡単じゃない

過去においては、アニメファンやゲームファンのなかには、群れて騒ぐ若者を嫌悪したり揶揄したりする人が少なくなかった。だが、彼らとて、コンテンツのなかで群れてはしゃぐキャラクター達を賛美しているうちに、理想や願望や欲望が塗り替えられてしまい、いつの間にか「ウェーイ」「ウェイウェイ」予備軍になってしまっている可能性は多分にある。現実では「ウェーイ」「ウェイウェイ」を嫌悪しながら、コンテンツの世界ではそのようなキャラクター達の賑わいを賛美するのは、ちょっとややこしい精神の乖離だと思うのだが。

「アニメやゲームは孤独な若者を増やす」、という言説がある。だが、こと理想や願望や欲望の次元において、今日のヒットアニメやヒットゲームが視聴者に届けている内容は、孤独になりたがるようなものよりも、群れて力を合わせたがるものが優勢だ。そもそも、「アニメやゲームを楽しんでいるのは根暗で孤独な奴」という時代はとっくに終わっているのである。

(2016年6月15日「シロクマの屑籠」より転載)

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