それって本当に承認欲求?――群れたがりな私達

最近、ネットを眺めていて思うんですが、【コミュニケーションにまつわる欲求=承認欲求】って思っている人が案外いるんじゃないでしょうか。

最近、ネットを眺めていて思うんですが、【コミュニケーションにまつわる欲求=承認欲求】って思っている人が案外いるんじゃないでしょうか。それって間違っているので、つらつら書いていきます。

日本語で承認欲求と書くと、読んで字の如く「承認されたい」ってイメージになりますし、それが大間違いというわけでもないのですが、原語がself-esteemとなっているように、自分が認められること・自尊心を持てること、そういったニュアンスの強い言葉です。ですから、同僚やクラスメートから高く評価されたいとか、ブログやtwitterで注目を集めたいだとか、そういった「"自分自身が"認められたい」タイプは承認欲求と呼んで差し支え無いと思います。

でも、人間関係にまつわる欲求って、これで全てじゃないと思うんですよ。例えば、クラスのグループに溶け込みたいとか、SNSやLINEに混じりたいとか、そういう気持ちには承認欲求って言葉があまり似合いません。これらも日本語にすれば「認められたい気持ち」かもしれないけれども、self-esteemって言葉とは少しニュアンスが違いますよね。承認欲求という言葉に比べると主語のはっきりしない、集団欲求みたいなものが「認められたい」気持ちの正体って場合もあるのではないでしょうか。

こういう主語のはっきりしない集団欲求みたいなものは、マズローの欲求段階説で言えば承認欲求ではなく所属欲求というカテゴリに該当します。所属欲求は、欲求段階説の例のピラミッド図では承認欲求より一つ下に位置していますが、現実を顧みるに、だいたい同格の心理的欲求とみて良いでしょう。

ファッションで喩えるなら、承認欲求は「オンリーワンなファッションで自分自身が褒められたい欲求」で、所属欲求は「みんなと同じユニフォームを身に着けて、皆との一体感や仲間意識を確かめたい欲求」といったところでしょうか。サッカーの応援席やコンサート会場がひとまとまりになっている時のあの高揚感にも、承認欲求という語彙では説明困難な、所属欲求っぽい充足感が含まれています。

■二十世紀後半は所属欲求が下火になった

戦前~高度成長期の日本では、承認欲求を求めることは、(社会的に)好ましい欲求とみなされていませんでした。出る杭は打たれやすく、心理的欲求の充足経路としてあてにするのは困難でした。

その頃優勢だったのが所属欲求です。家族・会社組織・出身校・地域社会の一因であること、皆と一緒に時間を過ごしていること――そういった集団との一体感が心理的欲求を充たす経路として重要でした。自分自身が目立たなくても、組織やコミュニティに所属している実感や共通の御神輿を持ち上げている実感さえあれば、それ自体に満足できる人が多かったのです。

もちろん当時も、個人主義的で承認欲求優位な人は存在していたでしょうし、そういう人達はさぞ苦労なさったことでしょう。そうでなくてもメンバーシップは束縛と表裏一体で、ストレスでノイローゼになってしまう人も珍しくありませんでした。

それでも、社会全体としてみれば所属感に喜びを見出す傾向が現代人よりは優勢で、しがらみストレスへの慣れや抵抗力も強かった、とは言えるでしょう。

都市化や核家族化が進んだ1970年代以降は、都市部を中心に、そうした所属欲求を求めたがらず、そもそも所属欲求の取扱いにも不慣れな新しいタイプの人間が増えていきました。集団への所属よりも自分自身が褒められることを重視するメンタリティは消費社会の成熟と歩調を合わせるように全国に広がり、心理的欲求のパラダイムは所属欲求から承認欲求に変わっていきました。"会社人間"や"飲みニケーション"が時代遅れになり、"成果主義"や"自己責任"といった言葉が流行するようになったのが二十世紀末の風景だったのです。

ちなみに、この時期には(マズローの欲求段階説では頂点に位置している)自己実現欲求について書かれた書籍が大量に出版されています。ただ、実際に自己実現した人というのはあまりいなくて、そうした書籍を欲しがった人々の実態も、単に承認欲求を欲しがっていただけではないかと私は疑っています。そもそもマズローによれば、自己実現欲求とは狙って目覚めるものでも誰でも目覚めるものでもない、とてもレアな欲求でわけで、それを欲しがるということ自体、いかにも承認欲求的な何かと言わざるを得ません。

■意外としぶとかった所属欲求

では、所属欲求は承認欲求に取って代わられてしまったのか。

そうでもなかった、と私は思います。

例えば十年前のインターネットを思い出してみてください。『電車男』や『のまネコ騒動』の時期ですね。当時は2ちゃんねるが栄えていましたが、ああいう匿名スタイルが熱気を帯びて成立していたのは、承認欲求だけでは説明できないと思うんです。ウェブサイトやブログのような顕名ネットメディアも増えていたにせよ、日本のインターネットの相当部分が匿名投稿者のクラウドみたいな意識で占められていました。"おまいら""おれら"的な表現が幅を利かせ、匿名投稿者同士でローカルルールをこしらえながらスレッドという"御神輿"を共有していたのです。

2ちゃんねるが衰退した現在も、所属欲求のたちこめるインターネットには事欠きません。ニコニコ動画は、動画投稿者自身は顕名で承認欲求を充たせますが、その動画にコメントを書き込む匿名の人達は(スレッドのかわりに)動画そのものを"御神輿"として共有しています。コメント弾幕などはその象徴と言えるでしょう。投稿者の承認欲求と視聴者の所属欲求の双方をリアルタイムに充たすという点において、ニコニコ動画は頭一つ抜きんでたネットメディアでした。

SNSやLINEの利用状況を振り返ってみても、皆が欲しがっているのは承認欲求ばかり......という風にはみえません。自分自身が目立ちたいと思っていない人でも、「友達グループからはみ出したくない」「仲間意識を持ち続けたい」気持ちに駆られて、端末をポチポチやっている人は結構います。彼らは「いいね!」が欲しくてポチポチやっているというより、群れていること・皆と一緒であることを望み、そこから零れ落ちることを恐れているのではないでしょうか。

そして、ひとたび郊外に目を向ければ、間近な友人や家族を大切にしている"普通の人達"がごまんと住んでいます。彼らだって現代人、きっと承認欲求もそれなり持っていることでしょう。それでも彼らのライフスタイルを見ている限り、自分自身が褒められること・肯定されることにそこまで執心しているようには見えません。意外なほど承認欲求/所属欲求のバランスのとれた心理的欲求が"普通の人達"のスタンダードになっている――そのことを見逃すべきではないと思うのです。

■承認欲求だけでは片手落ちなんですよ、いろいろと

そんなわけで、最近私は「現代人の心理的欲求を考えるにあたって、承認欲求ばかり強調するのは間違っている」と思っています。

インターネット、とりわけ誰もが個人アカウントを強く意識するブログやtwitterのような圏域では、承認欲求という言葉に注目が集まりやすく所属欲求が軽視されるというのは、まあ、なんとなくわかるような気がするんですよ。ネット上で声が大きい人達も、大抵は承認欲求優位な人でしょうし。

でも、それはあくまでネットメディア上で目立つ人達の話。目立たないところで普通に生活している現代人にとって、所属欲求は今でも重要です。やたら空気を読みたがる若者の話を聞くにつけても、ひょっとしたら、これから所属欲求の揺り戻しが来るのかもしれませんね。

(2015年2月3日「シロクマの屑籠」より転載)

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