一時期に比べると、たんなる自助努力が良いものとして語られなくなり、生まれ・育ち・文化資本といった、努力や自己選択のバックグラウンドが意識されるようになった。
数十年前の人達は、「努力さえすれば立身出世できる」「自分の運命は自分で切り開く」的な物語を信じたがっていた。いや、そうした信念に見合った社会を建設するために、実際たくさんの人が頑張ってきた。「自分の運命は自分で決めろ」。そのようなピュアな気持ちが溢れていた時代がこの国にもあったと思う。
だが、そのような自助努力を信奉していた世代が一巡した現在では、「努力」や「運命」を自助努力だけで切り開けると思う人は減った。もちろん、恵まれた教育環境や情緒的環境で育ってきた人達のなかには、それを「持って生まれた幸運な星回りの結果」とは考えず、呑気にも、皆に与えられた平等な前提条件だと思い込んでいる人もいる。だが、そのような呑気さをネット上でひけらかせば集中攻撃を浴びることが示しているように、今日、多くの人達は、自助努力のバックグラウンドそのものが不平等であることを(統計学に頼るまでもなく)正しく直感している。
不平等は、もちろん是正されるべき問題だ。
が、いま考えたいのはそこではない。
一億総中流の幻想が醒め、再び不平等が首をもたげてきた社会のなかで、もって生まれた星回りや天運を受け入れる方法論がすっかり寂れてしまっていることだ。
昨今、持って生まれた星回りや天運を呪う言葉は沢山ある。たとえば「毒親」「文化資本」といった言葉などは、呪詛を言語化するためにしばしば持ち出される。だが、こうした心理学的・社会学的な言葉を呪詛として吐きだしても、それで、持って生まれた星回りや天運を納得したり受け入れたりしやすくなったりするわけではない。
反対で、「毒親」「文化資本」といった言葉は、専ら、受け入れがたい星回りや天運を拒絶するための意志表明の手段として用いられている。
結局これらの言葉もまた、「努力さえすれば立身出世できる(べき)」「自分の運命は自分で切り開く(べき)」という、これまでイノセントに信じられてきた原理原則にもとづいて発せられているのであって、努力ではひっくり返せない過去の堆積やできあがるべくしてできあがった境遇を受け入れるための精神的方法論として発せられているわけではないのである。
■「星回りや天運を受け容れる」手段は本当に不要なのか
私は、社会全体においては、個人の自助努力や自己選択によって切り拓ける道ができるだけ広いほうが良いと思っている。議論するまでもないことだ。
しかし、それはそれとして、個人が個人として社会に相対する際には、受け入れざるを受け入れ、精一杯努力を積み重ねても太刀打ちできない人間には太刀打ちできないという現状を受け入れるための精神的“やりかた”があって然るべきだとも思う。
そうした“やりかた”とは、過去の社会においては、身分やイエやジェンダーといったカビ臭い概念が多分に引き受けていた。それらが撤廃されたのは良いことだったが、そのぶん私達は、自助努力の神話・自己選択の神話に忠実になった。いや、なり過ぎてしまった。宗教も、みずからの天運と折り合うための有力な手段だったが、これも有耶無耶になって久しい。むろん、それらは社会全体に抑圧をももたらしていたのだが。
しかし、自助努力の神話・自己選択の神話は、人間世界で起こっている出来事の正否や是非をすべて説明しとおせるものではないし、まして、すべてを解決できるものでもない。
なにもかもが自助努力と自己選択の所産とみなす世界観は、成功者には快い。だが、挫折者は全ての責任を受け容れなければならない。自助努力の神話・自己選択の神話を信奉するしかない者は、すべての成功を自分の報酬とできるかわりに、すべての失敗を星回りや天運のせいとすることを許されない。自助努力では届かなかった悲しみに受け身を取り、精神的ダメージを効率的に受け流すための言い訳のしようがない。
「人生に言い訳なんて許さぬ」という人もいるだろう。が、抗らえない運命にまで言い訳を許さないのは、よほど強い人以外にはしんどい事だと私は思う。
いまでは、自助努力や自己選択だけではにっちもさっちもいかないことを大抵の人が再-認識している。再-認識しているなら、持って生まれた星回りや天運を受け入れるための精神的方法論、あるいは“やりかた”が現代風に蘇っても良いはずだ。「毒親」や「文化資本」といった言葉で呪詛として吐きだすだけでは駄目だ。呪詛を吐くだけでは辛いばかりで、救いは無い。
今、持って生まれた星回りや天運にネガティブではない意味づけを与え、たとい苦しい人生行路であろうとも意味を見出し、受け入れていくための方法論はどこに行けば売っているのだろうか? むろん、そうした星回りや天運を小手先の言葉で一時的に遠ざける“おまじない”なら本屋にたくさん売られている。たくさんの人が星回りや天運に納得していないのだから、そうした本は確かに売れよう。だが、そういった本は星回りや天運をしばし忘れさせてくれても、受け入れる手助けとはならない。
そうではなく、うだつのあがらない境遇や思い通りにいかない人生選択の失敗から目を逸らすことなく、背負って生きていくための精神的方法論や“やりかた”が新たな装いで立ち上がってくる必要性もあるのではないか、と私は思う。かつて、身分やイエや宗教はそうした“やりかた”として曲りなりにも一定の機能を提供していた。それらがそのまま復活することは許されないとしても、それらが提供していた社会的機能そのものの復活は、それなりに必要で、ひそかに待望されてすらいるのではないか。
人は、自助努力や自己選択によって生きていると同時に、持って生まれた星回りや天運や環境要素によって生きざるを得ない側面も持ち合わせている。後者を強調しすぎるのはまずいことだが、前者にばかり意識をとらわれているのもアンバランスな話である。そこのところを、社会で指導的な立場にある人達は、いったいどのように考えているのだろうか。率直に、そのあたりを私は知りたい。
(2016年1月25日「シロクマの屑籠」より転載)