三年ほど昔、はてな匿名ダイアリーに『強くなりたい新大学生が本当に読むべき本100冊』という記事がアップロードされていて、たくさんの人からボコボコに非難されていたのを見かけた。
読んで面白い本も含まれていた反面、"この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になる""ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!"といった煽り文句が、かえって鬱陶しいというか、山師めいていた。数十年後に教養として残り得るのか定かではないタイトルが多いのも気になった。
それ以前の話として、本を読んで"教養を獲得する"にあたって、「本当に読むべき100冊」的なリストとは一体なんだろう、と訝しく思う。ちょっと大きめの書店に行けば、「読書の秋、教養になる○○冊」とか「有名人が薦めた○○冊」という企画をよく見かける。あれを仕掛ける人達の思惑と目的は、まあわかる。そのリストのなかから、普段はあまり触れないようなジャンルの本を探し出し、つまみ読みしてみる人達の好奇心もわかるし、自分もよくやる。
けれども、どこかの偉い人や頭のいい人が薦める書籍を、「この○○冊を読めば教養が身につくから読んでやろう」みたいに順繰りにインストールしていく、読む以前から教養と規定したうえで読んでいくような"教養の手に入れ方"ってのは、どこかおかしい。
■自由な読書の結果として、その人の教養が事後的に決定される
「読書によって教養がついた」というからには、知識面であれ、情緒面であれ、自分自身にそれが刻み込まれ、いつでも引き出しから取り出せる状態になっていなければ、それは教養とは呼べない。以前、「インプットした知識を血肉に変えるためには」という記事で書いたように、自分の知恵の道具箱のなかに収納され、いつでも取り出せる状態の知識にこそ意味があるのであって、自由に取り出せない知識、血肉になっていない知識は、まだ教養ではない。例えば清少納言が教養人と呼ぶに値したのは、古典や漢詩のたぐいを当意即妙に引用できたからであって、ただの本の虫だったからではない。
言い換えれば、「ある個人の身につけている教養」とは、その人がいつでも取り出し、引用できる知識の合計を教養と呼ぶべきであって、蔵書すべてが教養と呼べるわけではない。そして教養と呼び得る知識は人文分野に限ったものだけでなく、工学、数学、生物学などが含まれていたっておかしくない。そして身に付ける教養の偏りやフレーバーは、その人自身の選択、職業、時代性といったものに左右されて構わないはずだ。というより、そういった個人差が濃厚に立ち込めてくるぐらいに手垢のついた教養のほうが、自然のように思える。
本を読むという行為は、その人の知的蓄積をうながし、教養をつくりあげ、ひいては人自身をもつくりかえていく。それを認めるにやぶさかではない。けれども私は、その正反対の事実も同じくらいに大切だと思う――つまり、その人自身の選好がその人自身の知的蓄積を方向付け、その人自身にとってのオリジナルな教養がつくられていく、という事実だ。だから例えば、Aさんにとってエッセンシャルな教養とBさんにとってエッセンシャルな教養は、どこか必ず違っているし、仮に一冊の同じ本をAさんBさんそれぞれが教養に組み込んでいたとしても、いつ、どのような巡り合わせで、どのような必然性に導かれてその本を教養としてインストールしたのか、文脈は違っているはずだ。
人間の教養をパズルに喩えるなら、一冊一冊の本は、1ピース1ピースに喩えられるかもしれないが、その順列組み合わせは人の数だけ違っている*1。もちろん、組み合わせによって生じた全体像も違っているだろう。もし、全く同じパーツを全く同じ組み合わせで教養として保持している人間がいたら、そいつは妖怪ドッペルゲンガーである。存在するわけがない。
ということは、個人個人に蓄積された教養とは、その人自身を反映した大切な何か、ということに他ならない。ユニクロで買った服、贔屓にしている百貨店といった、弁別しやすい属性に比べればずっと複雑で、ずっとこんがらがった、核酸配列に喩えたくなるような何かだ。教養は大切にすべきだし、自分の教養は、どのようなものであれ愛し、育むにこしたことはないだろうとも思う。それはその人の歴史、その人の知識、その人の足跡をなにかしら反映したもので、コピー不可能である。
ときに、冒頭の『新大学生が本当に読むべき本100冊』のようなカタログが示されることはある。けれども、他人の教養の抜け殻をコピーアンドペーストすれば自分の教養ができあがると考えるのは適切はないし可能でもない。教養は、自分の身の丈や嗜好、性格にあわせて機織りしなければならない工芸品のようなもの*2だ。教養は、常にオーダーメードで、マニファクチュアで、ワンオフなものであるはずだし、そうでなければ、それはその人の教養ではない。
■だからこそ、教養の詰まった本棚を大切にしよう
そんな、一人にひとつの教養だからこそ、本や漫画、ブルーレイディスクを並べ、所蔵しておく本棚は大切なものだ。
手持ちの本のなかでも、何遍も振り返ることの多い本、枕頭の書として重宝している本、本棚のなかでひときわ輝いてみえる本、それらは他人からみれば知識の断片かもしれないが、本棚の持ち主自身にとっては知識でつくられた織物の一部だ。本棚の本は、一冊一冊バラバラなのではない。それらの本は、本棚の持ち主のシナプスを介して相互に関連づけられ、文脈づけられ、鬱蒼とした教養の密林を形成している。いちばん手近な本棚や、いちばん大切にしている本棚は、所有者の教養の中核を担っている、といえよう。本棚の持ち主にだけに紐解くことを許された、知の生態系。
大容量のHDDの普及や電子書籍の登場によって、これから、本棚という知の生態系のありようは変わっていくのかもしれない。が、さしあたって現時点では、個人の教養すなわち本棚であり、本棚こそが、かけがえのない教養の織物そのものであり、本と本との位置関係や並び順すら、おそらくその人の教養の生態系を反映している。そこから逆算して考えると、本棚を電子化すると、その電子化するという事態そのものが個人の教養の生態系を大きく改変し、ひいてはその人の教養の内実をも改変するだろう、と想定される。同じ樹木が植えられていても、土地が違えば森も変わってくるに違いないのだから。
そのあたりは於くとして、とにかくもワンオフ品の教養、自分だけの本棚はいいものだ。神棚のように敬うようなものではないけれど、耕し甲斐はあるし、これほど個人というものが反映され、個人というものに染まっていく装置は他にあまり無いような気がする。
人間は、家の外ではとかく不自由なものだけど、本を読むとき、教養や本棚を耕しているときぐらいは自由であっていいし、その人自身であってもいいはずだ。
*1:体系的な学習によってある程度の相似性が生まれやすい場合でさえ
*2:なかには芸術品と呼び得る水準の教養持ちもいるかもしれないが、一般論としては、工芸品と喩えるのが適切だと思う
(※この記事は、2013年11月11日の「シロクマの屑籠」より転載しました)