福祉は生きる意味や赦しを与えてはくれない

福祉は生きる意味や赦しを与えてはくれません。いや、与えられても困るんだけど。とりあえず福祉は、そういう意味とか赦しとかと距離を取っていて、そういう主観的領域は利用者自身に委ねています。

こちらの宗教記事に、"空飛ぶスパゲッティーモンスター教"の方から、ネタ記事をトラックバックして頂いてとても面白かったけれど、ちょっと考えさせられるフレーズがあったので、まとめてみます。

「福祉やらなんやらが発達した現代では宗教の役割がかつてより薄まったのは事実だとも思う」。私自身は福祉職ではありませんが、普段、福祉とデスクを隣り合わせにして働くような立場にいます。職業柄、ともすれば福祉利用者からは「福祉のメンバーみたいなもの」と観られているかもしれません。

そうやって、福祉界隈の空気とか日常風景をみていると、福祉が発達した現代においても宗教の役割はあんまり薄まっていないんじゃないかと、とみに感じます。

現代福祉は、物質的・サービス的な意味では、間違いなく昔よりも良いサービスを提供しています。それは確かなんですが、じゃあ、スピリチュアルなニュアンスが福祉にあるかというと、それは表面的な、上っ面だけのものでしかないような気がします。そりゃあ福祉には、スピリチュアルな名前がついている施設はごまんとありますけれどもね。福祉利用者が、その名称をみて癒やされるってわけじゃあありません。

福祉は生きる意味や赦しを与えてはくれません。いや、与えられても困るんだけど。とりあえず福祉は、そういう意味とか赦しとかと距離を取っていて、そういう主観的領域は利用者自身に委ねています。「あなたのこの不遇の意味づけ」「あなたのこの状況への赦し」そういう言葉を語って聞かせるのは福祉サイドの仕事ではありません。もちろん、現代福祉のあり方として間違っちゃいないとは思うんですが、ともかくも、そういう領域を福祉が提供してくれるわけじゃあないんです。

また、知的障害や身体障害の領域ではこの限りではないかもしれませんが、精神障害領域の福祉は、利用者の自立を目標とするところがあって、関わり方の背景に「今よりも自立を」「今よりもできるあなたへ」というニュアンスがどうしても含まれています。そういえば、生活保護にもそういう意味合いが含まれていましたっけ。福祉のあり方として、可能な範囲で利用者の自主自立を促すってのは良いことだと思います。

反面、自主自立を促し、「今よりも自立を」「今よりもできるあなたへ」というニュアンスを含むからこそ、ともすれば福祉は「そんな身上になった自分自身を受け入れる」「この身上を赦す」とは正反対の受け取られ方をしてしまう可能性さえ孕んでいます。「今のあなたのままじゃ赦しませんよ」とまではいかないにせよ、「今の自主自立できていないあなたを、なんとかしなさいよ」ぐらいのニュアンスはどうしても含んでいる。それは現代福祉の方向性として間違ってはいないのだけれど、利用者当人の受け取り方としてキツい部分がある、と耳にすることはあります。

まあ、現場レベルでは、誰がどこまで自主自立できるのかを評価したうえで、明らかにハンディが大きすぎる不可逆な人には「今よりもできるあなたへ」ってニュアンスは込められないし、認知症が入っているような人の場合は「今のあなたが維持できれば御の字」になったりもします。組織としては自主自立を促しつつ、福祉職のベテランおばさんが結構いい雰囲気をつくって、それで当人の自主自立が後押しされるとか、そういう風景も見かけます。だから、福祉が必ず「今のあなたのままじゃダメ。自立しなさい」系かといったら、そうではないし、現場によっては暖かな雰囲気が醸成されている場合も無くはありません。

けれども、福祉組織として、宗教のような生きる意味や赦しを与えてくれるような方面はやっぱり抜けていると思うし、抜けていて正しいとも思うんです。*1

「モノやサービスはどんどん充実、では、意味や赦しは?」

福祉に限らず、現代社会ではモノやサービスはどんどん充実して、贅沢品を求めるのでない限り、モノやサービスに困ることは少なくなりました。地方でも、モールやスーパーやコンビニが、かなりいいところまでモノやサービスを提供してくれます。ありがたいことです。

ただ、社会契約に則るかたちでモノやサービスが豊富に提供される反面、じゃあ、意味や赦しはどこでどれだけ提供されているんですか?と考えると、モノやサービスの氾濫とは対照的に、あんまり流通していないよなーと思わずにいられません。もちろん、刹那の承認欲求を充たしてくれるモノや、自尊心をくすぐって脳内をお花畑にするようなサービスなら、そこらじゅうに売ってますよ?でも、そうやって飢えた心理的欲求に振り回されながら生きて老いて死んでいく意味を整理するための何か、みっともなかったり失敗したり迷惑かけたりしている自分自身を赦し、赦したうえでどのように身を処するのかを整理するための何かとなると、現代社会のなかに、どれぐらい存在しているでしょうか?

意味はコンビニで売ってますか?

赦しはショッピングモールで与えられますか?

ニヒリズムに効く薬はネット通販で買えますか?

「社会契約の領域に、そんなものを求めるのは筋違いだ」とおっしゃるでしょう。私も同感です。ただ、これだけモノやサービスといった次元の充実が図られ、対照的に、意味や赦しを司っていたところの宗教が後景に退くとしたら、いったいどこの誰に意味や赦しを求めればいいんでしょうか?――そういうことを、たまに振り返っておいてもいいんじゃないかと私は思うのです。

羽振りが良くて調子に乗っている時には、そういう意味だの赦しだの要らないって思えるものです。けれども人生、いつも羽振りが良いわけでもないし、調子に乗っているわけでもない。だいたい、意味だの赦しだのを振り返りたい時ってのは苦境に立たされている時でしょう。そんな時、年末の街並みのような、モノやサービスばかりが溢れる空間を漂うばかりでは、人は、苦境の意味づけや、苦境に至った自分への赦しとか、そういうのを自力で捻り出しにくいのではないでしょうか。むしろ、気が滅入っている時にfacebookの自慢大会を覗き込んでしまうような、ウンザリ感がいや増すと思うんです。精神的にマッチョな人ならそういうのも平気なんでしょうけど、ほとんどの人間は、嫉妬だの羨望だの後悔だの、そういった情緒も込みの人間ですからね、なかなか割り切れるものじゃありません。

だから私は、モノやサービスの充実に比べて、宗教が司っていた領域が相対的に痩せている現状は、これはこれで厄介なものじゃないか、と思っていますし、そうした状況のなかで宗教ではない領域にスピリチュアルなものを見いだしてしまう人が続出するのも不思議ではないな、とも思います(その是非はさておいて)。福祉も、イオンも、セブンアンドアイも、意味や赦しは与えてくれない――そういう心の間隙と向き合い、整理するための社会装置が足りてないよねって認識は、あってもいいんじゃないでしょうか。

*1:宗教団体を基盤とした福祉の場合は、また話がかわってくるのかもしれませんが。

(※この記事は、2013年11月23日の「シロクマの屑籠」より転載しました)