育児お役立ちアイテムは何を与え、何を奪うのか――マクルーハン的に

空気清浄機は新米パパママには必須品だった(別の用途で) - 新米パパのイクメン(育児)日誌。生身の人間では気付きにくいものが、機械やセンサーの性能によってカバーされる――有史以来、繰り返されてきたことだと思う。上記リンク先は、空気清浄機のセンサーを子育てに応用した面白い例だ。昨今は共働きの家が多く、子育てする親はとても忙しいから、こういうアイデアは素敵だと思う。

生身の人間では気付きにくいものが、機械やセンサーの性能によってカバーされる――有史以来、繰り返されてきたことだと思う。上記リンク先は、空気清浄機のセンサーを子育てに応用した面白い例だ。昨今は共働きの家が多く、子育てする親はとても忙しいから、こういうアイデアは素敵だと思う。

ただ、このアイデアに限らず、例えば赤ちゃんがおしっこをすると変色する紙おむつなんかもそうだけど、生身の人間では気づきにくいものを機械やセンサーの性能でいつもカバーしていると、失われるものもあると思う。

乳幼児のおしっこの例でいうなら、こうやってテクノロジーにカバーされたかたちで親が子どものおしっこを察知してばかりいれば、親は、子どもの泣き声の変化や身振りをヒントに「子どもがおしっこしたな!」と気づくセンスがいつまで経っても育たないだろう。

子どもの側もまた、自分の不快感を自分の泣き声で訴えて、その自分の泣き声に対して親の世話というフィードバックが還ってくる――という相互応答の成立が曖昧になる。センサーや紙おむつが排尿を知らせてくれ過ぎると、子どもは泣いて訴える必要が無くなるし、親も気づく必要がなくなる*1。

利便性とひきかえに、排尿の不快感を巡る親子間のコミュニケーションが失われている。

失われると言ったら言い過ぎとしても、そこには何らかの変質が含まれている。

「乳幼児期なんて一瞬だから、そんなの育たなくてもいいじゃん」と言う人もいるかもしれない。しかし乳幼児期といえば、エリクソンのライフサイクル論に則って考えるなら、「基本的信頼 対 不信」という発達課題たけなわの時期だ。「床に置かれる不安や、空腹感や不快感に晒されても、じきに養育者*2がなんとかしてくれる」体験の積み重ねが大切な時期で、そういった信頼体験が欠けていると、反応性愛着障害をはじめ、メンタルヘルス上の問題が生じやすいとされている。

赤ちゃんが呼べば、養育者がそれに応える――そういう相互応答、親子のコミュニケーションのなかで、赤ちゃんは「辛いことや哀しいこともあるけれど、でも、なんとかなるさ」という基本的土台を養っていく、といわれている。

エリクソンの発達課題の理屈は、あくまで一モデルに過ぎない。それでも、赤ちゃんの心理的・情緒的発達たけなわの時期において、親子間の【応-答】の積み重ねを軽視して構わないとは思えないわけで、そこに、センサーや機械が入り込むことによって何かが変質する可能性を、もし変質するとしたら、一体何が失われ、何が獲得されているのか、気にしておきたいところではある。

■テクノロジーによる獲得と喪失

もちろん、徹頭徹尾鈍感な養育者もいるだろうから、そういう親元で育つ人にとって、センサーや機械による代替は純粋に福音と言って良いものだ。それと最初に触れたように、現代の子育ては多忙な親が、責任と手間を一身に背負う形で行われがちだから、この手のお役立ちアイデアやテクノロジーについて悪く言うより、頼るべき局面では頼ったほうが良いと思う。多忙で自己責任と化した子育て環境の厳しさは、使えるものを使って埋め合わせていくしかない。

ただ、生身の人間を超えたセンサーや機械は、わかりやすい利便性を提供する裏で、こっそりと何かを奪ったり、質感を変質させてしまったりする......という点には、なんらかの用心深さがあっても良いのではないか、と思う。凄まじい勢いでテクノロジーとガジェットが流通し続ける今日においては尚更だ。マクルーハンが語ったとおり、自動車に頼るようになったロードサイドの人々は、足腰の筋肉を萎えさせた。同じような変質が、コミュニケーションをSNSに頼り、学習記憶をHDDやgoogle検索に頼るようになった現代人には、きっと忍び寄っているだろう。

これまでセンサーや機械によって拡張(というより変質)していたといえば、大人の利便性に即した領域や、テクノロジーを使いこなせるような年頃同士のコミュニケーションの領域がメインだった。ところがこの場合、親子関係という、きわめてプリミティブな関係性のなかに、テクノロジーが潜り込んで"お手伝い"を働いている!その意味は、親自身にとってはともかく、乳幼児の体験にとって、それなり大きいのではないかと思う。

念押し的に繰り返すが、だからといってセンサーに頼るなと言いたいわけじゃないし、色の変わる紙おむつを使うなと言いたいわけでもない。そんな事を言い出したら、例えば哺乳瓶だって、皮膚感覚を介した母子間のコミュニケーションを変質させている、と言えるわけで、神経質になりすぎるより、目の前の利便性を優先させたほうがいいに決まっている。

ただ、これまでもこれからも、私達はテクノロジーに助けられ、たぶんテクノロジーにどこか奪われながら生きてゆくということ、その影響は大人だけの世界で完結しておらず、子ども時代のプリミティブな関係や、たぶん心理的発達の領域にも及び得ることは、手放しに喜べないニュアンスを含んでいるような気がするので、この文章で、存分に詠嘆しておきたいと思って、書き散らかした。おわり。

(2014年2月18日「シロクマの屑籠」から転載)

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