昨日、ノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんに対する日亜化学の「感謝で十分」「貴重な成果を生み出されるようにお祈りする」というコメントに、ネットユーザーが盛んに反応しているのを見かけた。はてなブックマーク上では、丁寧なお断り以上の深読みというか、呪詛だ、嫌味だ、ブブ漬けだと、さまざまなニュアンスを汲み取ったコメントが並んでいた。
確かに、
「貴重な時間を弊社へのあいさつに費やすことなく研究に打ち込み、物理学に大きく貢献する成果を生みだされるようにお祈りする」としている。
このフレーズに登場するという一節から、慇懃無礼を想像するのは容易い。「お祈りする」というフレーズから就活の不採用メールを連想する人もいるだろう。だが、ノーベル賞を受賞した人に対するコメントであり、自社を謙遜した表現とも取れなくも無い*1。グローバリゼーションを重視する中村さんに対し、徳島県の地元企業としてこのレトリックを選ぶのも不思議ではないだろう。
日亜化学のコメントは、慇懃無礼な呪わしいお断りなのか?
それとも、自社を謙遜しながらの丁寧なお断りなのか?
ネットだけ見ていても埒が明かないと思い、テレビのニュースを見てみることにした。ちょうどNHKの7時のニュースの時間、はたして「感謝で十分」「お祈りする」は報道されていた。
NHKニュースのテレビ報道を見る限り、嫌味や慇懃無礼の気配は感じられなかった。「過去のわだかまりはあったにしても、感謝の気持ちだけで十分です、これからのご活躍をお祈りしています」――そういうサラっとした報道にさえ感じた。アナウンサーの声のトーンからは、肯定的な出来事を報じるような響きさえ感じたが、私の勘違いかもしれない。ともあれ、このテレビ報道だけを見て、呪詛やブブ漬けを連想する人はあまりいないだろうなとは感じた。
■言葉の裏を読み取る行為の、可能性とリスク
ネットでは、言葉の裏を読む行為、言外のニュアンスを汲み取る行為が、ひとつの能力とみなされがちだ。ネットスラングで言うところのゲスパーもそうだろう。それはそれでひとつのポテンシャルだと思うし、実際、役に立つ場面もある。今回の件についても、そうした言葉の裏読みが的を射ている可能性は十分ある。だから、言葉の裏を読む行為自体を私は否定しようとは思わない。
だが、言葉の裏を読む行為、レトリックの微細な特徴から"真意"を深読みする行為は、それはそれでリスキーではないか。それこそ今回の日亜化学のコメントなどは、礼法に適った断り方であり、グローバルな研究人に対する配慮などを慮れば、丁寧に断っただけにも読めなくない。最低限、字面上はそうなのだ。
「お祈りする」というフレーズから就職不採用メールを連想し、そこから嫌味とみなすのも、これは読者の勝手な勘繰りというものだ。いや、勘繰りなら勘繰りで別に構わないが、それをもって嫌味だと断定してしまうのは、いかがなものか。
本来、「活躍をお祈りする」というフレーズには、相手を応援する気持ち、相手に対する肯定的な気持ちが込められているはずだ。少なくとも、字面上はそのような字義である。その字義をわざわざ覆してまで、呪詛だ、嫌味だ、ブブ漬けだと即断するのは、一体いかなる根拠によるというのか?
「活躍をお祈りする」が就職不採用メールに多用されているからだろうか?しかし中村さんは就職面接を受ける学生ではない。そもそも、就職不採用メールに書かれた「お祈りする」を呪詛や嫌味と解釈すること自体が、私にはよくわからない。
だいたい、就職不採用のメールの語尾に「お祈りする」が付けられていることをもって、「お祈りする=相手に対する呪詛や嫌味」と判断するのは、根拠薄弱ではないのか?不採用を突き付けられた学生の恨みがましい気持ちが、その判断根拠だとでも言うのか?「お祈りする」で締め括られた文章は、それ自体は礼を尽くしたものではないのか?普通、不採用にした人にも幸あれと祈ることはあっても、不採用にした相手にわざわざ呪詛や嫌味を練り込めて「お祈りする」なんて事はあり得ないのではないか?
こうした可能性を顧慮することなく、「お祈りする=呪わしい」と解釈して疑わず、これは慇懃無礼に違いない、呪詛や嫌味のコメントに違いないと決めつける人々は、自分は裏読みに成功し、真意を見抜いたと早合点し過ぎではないだろうか。そんな調子では「マスメディアは嘘をついている、2ちゃんねるには真実が書いてある」と早合点する人達のことをあまり笑えないのではないか。
なるほど、言外のニュアンスを汲み取るのも、情報リテラシーのひとつではあろう。だが、言外のニュアンスに飛びつき過ぎないこと、字面表面をきちんと再吟味することも、情報リテラシーのひとつではないか。そして、言外のニュアンスと字面表面の意味を比較検討したうえで、どちらが真意なのか紛らわしいと思った時には判断を留保すること、ダブルミーニングにみえる場合でもそうではない可能性を念頭に置くこと、礼法に適っているならひとまず字面どおり受け取っておくことが、大切ではないか。
念押し的に繰り返す。私は、言葉の裏を読むなと言いたいわけではない。言葉の裏読みに夢中になり過ぎるあまり、言葉の裏を読んだつもりで、本当は無いかもしれない悪意や呪詛を"ある"と断定するのはまずいんじゃないか、と主張したいわけだ。
■「祈り」を「呪い」に変換しているのは、自分自身かもしれない
もちろん、大人の世界にしても、ネットの世界にしても、そうしたダブルミーニングを使った当てこすりは珍しくない。言葉で罠を張りたがる人間もいるだろう。だが、そうやって嫌疑の目でばかり他人の文章を読み取っていては、本来憎まなくても良い相手を憎んだり、疑わなくても構わない相手を疑ってしまうかもしれない。ポジティブな祈りや感謝をネガティブな呪詛や悪意に変換しているのは、実のところ話者や筆者ではなく、ときとして(情報の受け取り手としての)自分自身かもしれないのだから。
こうした「祈りか」「呪いか」的な問題は、社交辞令の場面だけでなく、恋人同士のメールやカジュアルなネットコミュニケーションでもよく起こる。相手からのメールやメッセージのちょっとした表現を拡大解釈して悪くとった挙句、揉めなくても良いことで揉めてしまったような経験は、誰にだってあるはずだ。少なくとも私は、過去にそれで痛い失敗をしたことがあるので、深読みに飛びつきたがる自分自身には手綱をかけておきたいと思う。
*1:しかも、「弊社に対する深い感謝を公の場で述べておられ......」とも述べている。
(2014年11月5日「シロクマの屑籠」より転載)