id:nisemono_sanこと似非原さんが書いた成熟についての文章を読み、何かがイラっとした。「成熟」の捉え方について大きなギャップがあるようにも思えた。同じ語彙を共有していても、託している意味が異なれば、議論は成立しない。しかし、私なりの成熟の定義を挙げたうえで所信を述べれば、なにか伝わるものがあるかもしれないので、書いてみる。
「成熟」。
曖昧な言葉だ。goo辞書を引用すると、
せい‐じゅく【成熟】
1 果物や穀物が十分に熟すること。「稲が―する」
2 人の心や身体などが十分に成長すること。「―した肉体」
3 その事をするのに最も適した時期に達すること。「機運が―するのを待つ」
となっている。
私が考える【成熟】は、2に近い。かつて、ブログ上で脱オタ/非モテ論議をやっていた頃に比べれば、私は【成熟】の意味を広く採るようになったが、それでも、人間の成長、とりわけ心理社会的主体としての経時的変化をこそ【成熟】と呼びたがる*1。
一方、人間の経時的変化には社会適応の柔軟性や成長可能性を損ねる方向に進むものもあるので、例えば、逃避的娯楽や嗜好品への耽溺を繰り返すうちに意志力/衝動コントロール力を失ったり社会生活技能を失ったりするような変化を、私は【成熟】とは呼ばない。
むろん、「人生万事塞翁が馬」なので、ある時点での停滞・挫折が次の局面の栄養源になることはある。むしろ、人生はそういう事ばかりだろう。しかしその場合でさえ、まさにその"次の局面"が来ない限り――過去の停滞・挫折を現在に活かすような意志・能力を欠いている限り、と言い直しても概ね差し支えない――、その停滞・挫折そのものは【成熟】と呼ぶには値しない。
......ということは、停滞・挫折にしても、教訓・前例・療養といったかたちで次の局面にフィードバックできている限り、その人は【成熟】の歩みをやめていない、ということになる。過去や経験(実体験だけでなく読書なども含めて良いと思う)から学び、社会適応の形態を改め続ける人は、成熟し続ける人だと私は思う。その歩みに、個人差や巧拙が伴うとしても。
付け加えると、第三者からみてどれほど巧くやっているようにみえる人物でも、当人自身が過去や経験、自分自身の歴史参照といったものを欠いているケースには【成熟】という語彙は似合わないと私は思う*2。ただ眼前の現象に心奪われることしか知らない人は、たとえ華やかに適応していたとしても、行き当たりばったりでしかない。そうではなく、その当人の過去からのフィードバックを伴ってはじめて【成熟】という語彙がしっくり来る。
延々と【成熟】の持論を書き綴ってきた。
本当は、私はもう成熟という言葉を乱発したくない*3が、今回は便宜上、成熟という言葉を使い続けることとする。
で、やっと頭が整理されてきて、リンク先の文章に対する違和感がみえてきた。
私が似非原さんの成熟という語彙にイライラしていた理由は、成熟が「場」とか「イベント」に紐付けられていて、個人とか、似非原さん自身の体験蓄積*4とか、そういうものに紐付けられている雰囲気がちっとも感じられないからだった。
似非原さんが、【成熟】に関連して挙げていた言葉を点検してみよう。
「はてな村」
「祭り」
「永遠の文化祭」
「ニコニコ動画」
「超会議」
「イベント」
......「成熟関係ないじゃん」と思った。
特定のコミュニティやイベント、アーキテクチャを利用し続けていたら、人間は成熟していない事になるのか?もし、成熟しない、成熟していない個人がいたとしたら、それは「場」や「イベント」のせい(or お陰)なのか?そういう部分も無いわけではないだろうけれど、実際には、オタク諸氏だってそれぞれの速度で成熟なり社会化なりを続けているわけだし、祭りの参加者が全員未熟だとか、そんな事があるわけない。同じコミュニティ、同じイベント、同じアーキテクチャに属していても、成熟の歩みは個人それぞれであり、控えめに言ってもアーキテクチャがすべての命運を決めるわけではない。
それと、個々のイベントなりネットサービスなりが永遠のカーニバルと化しているからといって、そこに参加する個人が未-成熟を徹底させていくとは、私には考えづらい。いや、ネトゲ廃人みたく、ひとつのイベントやネットサービスに24時間365日張り付いて、それ以外の社会活動やコミュニケーションを一切持たないというなら話は別ですよ?アニメ観る以外は何も活動しない人、活動できない人とか。でも、インターネットの不夜城を訪れる人達の過半数が、そういうモノカルチャーな人生を歩んでいるとは思えない。殆どの人は、オタク趣味なり、ニコ動なり、ブロゴスフィアなりを楽しんではいても、"呑まれてしまっている"わけではない。
もちろん、アーキテクチャが人間の成熟の方向性や内容を規定することはある。学校教室、都市や郊外、オートロックマンションといった生活環境は、そこに暮らす人間のメンタリティを大きく変える。成熟のかたちも、社会適応のかたちも、意識のかたちも変えていく。けれども、ネットコミュニティやニコニコ超会議は、そういう「恒常的かつ大多数の人間を包み込み、逃れられないようなアーキテクチャ」ではない。かりに、ブロゴスフィアなりニコニコ界隈なりに張り付きすぎて廃人化し、「成熟しないことの徹底」をやってのける個人がいるとしたら、それをアーキテクチャのせいにするのは私は筋が悪いと思う。ほとんどの人が廃人にならないアーキテクチャ上で廃人が廃人になってしまうのは、アーキテクチャのせい以上に、廃人になってしまう個人の問題ではないのか。そして「成熟しないことの徹底」にしても、アーキテクチャの仕様ではなく、個人の選択、あるいは個人の社会適応の逸脱や変形と捉えるべきではないのか。
「成熟しなくても生きられる」という一説を私風に翻訳するなら「歴史が無くても人は生きていけるし適応できる」みたいな感じになるので、これは、現在の私にも、2006年頃の私にも到底受け入れられる視点じゃないのです。
どうやら私は、「成熟の問題は、アーキテクチャの性質の問題以前に個人の問題なんじゃないの?」と声を大にして言いたいらしい。そして、成熟の個人性を蔑ろにしたまま、誰のものともつかないアーキテクチャやシステムの問題として論議するのは、なんていえばいいのかな、ずるいような気がしてならないのだ。それだけじゃあない。個人個人が積み上げてきた成熟や社会化の歩み、人それぞれの歴史の蓄積や成長を軽んじる視点のような気もする。私みたいな人間からすれば、それは魅力的なビジョンでも生き方でもない。
どんなに時代やアーキテクチャが変化し、意識や自我のかたちが移ろっても、個々の人間が経験を蓄積させながら変化していくこと、適応のための最善を尽くしていくことには、変わりがない。少なくとも私はそう思っている。それが拙いものだったり、緩やかなものだったりしたとしてもだ。永遠の文化祭なんてのも、本当は、机上の概念か、誰かの願望だった(過去形)のだと思う。ビューティフルドリーマーを夢見ている最中でさえ、私達は、否応なく時間と歴史を背負っている。あとはどのように変化するか、どのようなかたちで成熟が起こるのか、それとも起こらないかだけの問題だ。
ただ、やっぱり僕があのころの「はてな村」だと思っていたものではなく、やはり移り変わっていくものだな、というのを印象深く見守るに過ぎない。そして、人々が非モテで散々議論されてきて、その様子をうっすらと知っている友人が似たようなことを口走っているのは、やはりその主題というのは、何度でもよみがえるような亡霊のようなものであり、その経験は老害が「それは過去に散々やったことだ」なんて主張するべきものではなく、そのときに一度「誤解」しないと、到達できない何かの道なのだろう。そんなことをジジェクが書いてた気がする。
とはいうものの、上記の一説を読みながら想像するに、似非原さんとて個人史の蓄積とそれに伴う変化を否定しているわけではないように想定されるので、たぶん、全く違った事を考えているわけではないのだとは思う。いや、やっぱり全く違った事を考えているのかな?どちらにしても、時計は常に動き、人は常に変わっていくのは公理なので、それに即して成熟と社会適応について考えていきますよ、私は。
北極からは、以上です。
*1:なお、【成熟】のゴールドスタンダードは、個人の社会適応だけに寄与するものでも個人の利益追求だけに寄与するものでもなく、年少者の成熟の基盤となるものだったり、共同体や知己とベネフィットを共有できる可能性を含むものだとは思う。ただしそれは「成人の多数派を占めていて貰わなければ社会がじきに消えてしまう」一つの雛型であって、多様化した現代社会において、社会成員全員に求めるべきものではないとも思っている。そして、その雛型だけでも色々と上手くいかないとも思う。
*2:注:ただ、過去や経験の参照が、どこまで意識下で行われるのかは定かではない
*3:私は、出来ることなら「自分自身の年齢や境遇に即した社会化」と表現したい。【成熟】というと、何か御立派なステレオタイプにおさまなければならないような響きがあるけれども、現実の社会適応はもっとバリエーションに富んでいるし、望ましい社会化の姿というのも、年齢や職業や個人の気質などによってかなり違うからだ。それぞれの人にとって最適な社会化が、それぞれの人の加齢や境遇変化に伴って進行していくなら、それでいいじゃないか、それが立派なことじゃないか、と今の私は思っている
*4:体験、だけではない。体験蓄積と四文字で表記すること!
(2014年8月1日「シロクマの屑籠」より転載)