昨日の記事に、以下のコメントがついているのを観て、しばらくボンヤリしました。
叱り手の能力次第じゃね?「(意味が)伝わらないのは送り手の責任であって、受け手の責任じゃねぇ」ってとこ。ついでに叱るのは叱り手の損が多いからじゃね?損が大きければ必然的に「真剣に叱る」んじゃね?
「伝わらないのは送り手の責任......。」
はあ。
責任、ねぇ......。
そういえば、そういう見方もあるんですね*1。叱る側、注意する側に【伝えなければならない責任】があるような状況が、世の中には確かにあります。
でも、現代社会において、そんな【伝えなければならない責任】なんてどこにどれぐらいあるんですかね?折に触れて、言語的・文章的に【伝達を行った】【注意を勧告した】という形式を踏まなければならないのはその通り。でも、然るべき伝達形式を守っても伝わらない時は、システムやマニュアルに従って処分の対象にする仕組みができあがっているのでは?
もっと言うと、真に個人として注意・叱責しなければならない場面って減っていると思うんですよ。注意・叱責はシステムに則って行われ、上司や先輩もそのプラットフォームに過ぎません。人間関係が文脈や役割で区切られ、職場関係や師弟関係がシステムによって枠付けされた社会では、個人として注意・叱責しているようにみえる場面でも、その実、システムやマニュアルが注意や勧告を促しているに過ぎない事が多いじゃないですか。そういう状況下の注意・叱責に関しては、叱る個人の責任ってやつが、私には不明瞭なものとして感じられるんですよ。
責任の話は終わりにして、そろそろメインの話に移ります。
現実の人間関係、とりわけ私的領域はシステムの枠におさまらないので、注意や叱責が個人的動機や感情によって生じる場面はまだあります。問題は、そうした叱責や注意が個人的動機に基づいているがために、叱ってもしようがないと思った相手は叱らないし、注意を促す必要を感じない相手は注意しない、って点です。
要は、「叱る人間だって相手を選んでいる」ってことです。時間や労力をかけた挙句、なんら効果が無く、相手に恨まれるかもしれない叱責なんて、誰もしたくないですからね。そんな相手と対峙する時には、システムや制度の命ずる範囲を一歩もはみ出したくないでしょう。
だから、叱ったり注意したりする人間の能力だけを問題にするのは片手落ちで、叱られる側としての所作、もっと言うと、自分よりもノウハウやスキルに勝った先達からどのような注意や叱責をどれぐらい上手に引き出せるかの個人的能力がきわめて重要になんですよ。
世の中には、明らかに叱られ下手な人間がいます。
叱られ下手にもいろんなタイプがいて、何を言われても学習しないタイプ、叱られると思考が止まってしまうタイプ、叱られることで人一倍ストレスを感じるタイプ、等々です。しかしタイプの如何にかかわらず、そうした叱られ下手な性質ってのは、見ている人は見ているし、気がついた周囲の人間は「こいつはなるべく叱っちゃいけない。叱らずに済ませるようにしよう」と考え始めます。いずれ本人の損になると分かっていることでも、それどころか組織にとってマイナスになると分かっていることでさえも、やむを得ないコストとして放置されることもあり得ます。
反対に、叱られるのが上手な人間もいます。
叱られ上手にも、やはりいろんなタイプがいて、駄目な叱り方をする人間に敬遠されやすい人、叱っている人の言語化を促すのが巧い人、どんな注意をされた時に行動修正しやすい人物なのかを周知させるのが巧い人、等々です。こうした人達は、注意や叱責によってストレスフルになりすぎることなく、効率的に先達者からスキルやノウハウを吸収していきます。なんらかのかたちで叱責や注意を栄養源とし、その効率性を高めているような人達です。
"自分自身の学習や成長"という視点からみれば、上司や先輩の注意責任だの管理責任だのは、興味をそそるテーマではありません。それより私が心惹かれるのは、ひとつひとつの場面、ひとつひとつのコミュニケーションから、実利の高い経験値を叩き出せるか否か、というテーマのほうです。叱責や注意もコミュニケーションの一場面である以上、そこで貰うモン貰っておかないと損だよねって事です。
だから、リスクやコストを最小化しつつ、ベネフィットを最大化できるような叱られ方が出来る人と、そういうノウハウを欠いている人では、学習や成長に結構な差が出ると思うんですよ。五年、十年と経つうちに大きな差になるのではないでしょうか。
それと、成人して暫く経つと、叱ってくれる人が次第にいなくなるじゃないですか。うかうかしていると、誰も叱ってくれなくなります。本人は、それでラクかもしれないし自分は常に正しいと思い込めるかもしれない。そのかわり、誰も過ちを直してくれない。
誰の目にも明らかな欠点を曝している成人、誰の目にもナンセンスな計画を立てている成人に、他人は冷たいものです。「この人なら、叱って伸び代のある人かな」「こいつは注意を受け入れる余地がありそうだな」ってコンセンサスがある人には、注意される余地がまだしも残されますが、そうでない人は放置推奨――それが、(都市や郊外における)成人の付き合いってやつだと思うんですよ。
あるいは、歳を取ってくれば年少者に直言される機会が増えるかもしれません。でも、これだって、利く耳を持たない年長者と判断されてしまえば、年少者は誰も直言しなくなるでしょう――「あのおっさんは、何を言っても分からないから、スルー推奨」――それって"老害一直線"じゃないです?
こうやって文章化してみると、他人から注意や叱責を受け入れる巧拙は、年齢とは無関係に重要だな、と痛感してきました。若い頃から唯我独尊を何十年も続けているようでは、"お手製の馬鹿者"になるのを避けられないのではないか;そんな風にも思います。
■「叱られる」に対する積極的機動
それともう一つ。
注意場面や叱責場面を人間関係の調整場面として活用できる余地があるなら、活用すべきだとも思います。
注意や叱責もコミュニケーションである以上、叱られる自分だけが影響を受けるのではなく、叱る相手も必ずなんらかの影響を受けます。作用-反作用の法則みたいなものです。だったら、叱られる側としては、ただ黙って叱られているのではなく、これから先、なにかとやりやすくなるような叱られ方をしたほうがいいじゃないですか。
旨味に富んだ叱責をわかりやすく提供してくれる相手には、相応の対応を。どう考えても役に立たない叱責しかよこさない相手には、それはそれで相応の対応を。
もちろん、実際には単純な二項対立に納まるものではなく、納めるべきでもありません。それでも、叱られる際の身振り手振りやその後のフォローに関しては、やりようは色々あるはずで、叱る側の動機づけに働きかけたり、叱る側のレトリック運びや態度に影響を与えたりする事は可能です。もし必要なら、「こいつは叱ってもしようがない」と思わせることだって出来るでしょう。
そのあたり、どこまで自分の意志を働かせることができるか、また働かせたとして狙いどおりの結果を得られるのかは難しいところですが、全く意図しないで叱られているよりは意識的なスキルアップの余地が生じますし、(仮に)2%程度でも相手の行動確率に働きかけることが出来るなら、それで十分だと思います。たとえ劇的な変化が望めなくても、ごく僅かな積み重ねを何年も続けているうちに、人間関係が変わってくることはよくあることです。
私は社会適応マニアなので、注意や叱責といったコミュニケーション場面も、なるべく効率的に血肉にしたいと思っちゃうんですよ。そうした余地がある場面では、口を開けて待っているのではなく、むしろ旨味のある注意や叱責を積極的に捜索し、必要なら取りに行く――ここ十数年は、そうやって生きてきたつもりです。どこまで意図どおりになっているのかは怪しいところですが。
疲れてきたので、ここまでにいたします。
*1:昨日の記事の主旨は「叱る側の責任」を論じたものではありませんが、それは於きます。
(2014年6月26日「シロクマの屑籠」より転載)