【アニメやゲームを愛する気持ちvsコミュニケーション欲】問題について

筋金入りの一匹狼オタクでもない限り、たいていのオタクは――というより人間全般は――お互いが知っているコンテンツやネタを媒介物にコミュニケーションして満足しがちなので、「コミュニケーションのためにコンテンツを求める」心性を否定してもしようがないし、一匹狼志望でも無い限り、処世術として身につけておいて構わないとは思う。

リンク先は、【コミュニケーション手段としてのコンテンツ消費、話題や共通言語獲得のためのアニメ視聴】をテーマにした文章だ。筋金入りの一匹狼オタクでもない限り、たいていのオタクは――というより人間全般は――お互いが知っているコンテンツやネタを媒介物にコミュニケーションして満足しがちなので、「コミュニケーションのためにコンテンツを求める」心性を否定してもしようがないし、一匹狼志望でも無い限り、処世術として身につけておいて構わないとは思う。

ただ、うまく言えないけれど「他人からのまなざしに毒されているな」と感じた。「コミュニケーション欲が先立ちすぎて、コンテンツを愛する気持ちがわかりにくくなっている」というか*1。もし、コミュニケーション欲が先走り過ぎた人間までもがオタクのカテゴリーに含まれるとしたら、それはどのようなオタクだろうか?オタクとして定義される趣味生活とは一体なんなのか?そんな疑問を感じた。

個人の見解として、私はオタクやマニアとそうでない人との本質的*2分水嶺は、「他人の評価から距離を取って自分の好きなコンテンツを自分のスタンスで愛好・愛玩できるか否か」だと思っている。もちろん、斉藤環さんが『戦闘美少女の精神分析』で記したように、二次元キャラに性欲嗜好を抱けるか否かを指標にした分類もあるだろう。しかし、そうした二次元キャラへの性的嗜好も含め、とにかく自分の好きなコンテンツを好きなように摂取し、他人の価値観には左右され過ぎない――それがオタクだと思っていた。

「コミュニケーション欲」という観点で振り返るオタク史

過去の時代のオタクは、自分がコンテンツを深く愛していない限り、なかなか続かなかった。

伝聞によれば、80年代に"おたく"をやるためには、金銭的・時間的・地理的ハードルをクリアし、マイナージャンルコンテンツを自分の力で追いかける力が必要だったという。「当時も非-求道的な"ぬるオタ"は多く存在した」とはよく聞く話だが、そもそも、アニメを録画し見続けること・パソコンゲームを遊び続けること・コミケに参加することの敷居が高かった時代の話だ。首都圏の裕福な子弟ならともかく、そうでない人間がおたくを貫くには相応のバイタリティなり"宿痾"なりが必要だった。また、情報源としての雑誌メディアはあったにせよ、少なくとも定期購読する程度の甲斐性は必要だったし、コンテンツそのものを蓄積しておくためには雑誌とは比較にならないほどのお金がかかった――子ども部屋に自分の好きなコンテンツをいっぱい所蔵しておけるような生活環境が必要だったのである。世俗のコミュニケーションにリソースを費やしていては、"おたく"が務まりにくい時代だった*3。

90年代のオタク。新人類とのサブカルチャー主導権争いに敗れ、負のスティグマを貼り付けられた当時のオタク達は、「世間で軽蔑されるホビーをやっている日陰者」という意識に否応なく曝された。「目の大きな、髪がピンク色の女の子が出てくる作品を見ているやつは、キモい」という風潮のなかで生きていくためには、必然的に、他人のまなざしに左右されず自分の好きなものを好きと言えるスピリットが必要だったし、当時のオタクは、多かれ少なかれそうしたスピリットを持っていたと思う。

尤も、そうした「俺達はキモい趣味の日陰者」という自覚の共有こそが、オタク内輪でのコンテンツ媒介型コミュニケーションを促していたとも言えるし、「キモい趣味の日陰者だからモテなくてもしようがない」「俺がコミュニケーション不全なのはオタクだからだ」といった免罪符の獲得効果もあったわけで、90年代のオタク達とて「他人からのまなざし」に完全に無頓着だったわけではない。完全に無頓着ではないからこそ、オタクな自分を自虐するような語り口がテキストサイト時代に跋扈した、とも言える。

ところが、00年代の中頃――ドラマ『電車男』が大ヒットしたあたり――から事態は一変した。とくに若年層においてオタクの負のスティグマは大幅に減退し、サブカルチャー内部のアニメジャンル・ゲームジャンルの立ち位置も変化した。秋葉原の歩行者天国・ニコニコ動画・twitter......。オンラインでもオフラインでも「オタクがコンテンツを媒介物としてコミュニケーションする光景」が一気に表面化した。

あるいはその内実は、オタク未満と呼ぶべき人達・ポップなコンテンツでコミュニケーションができれば何でも構わない人達の流入だったのかもしれない。とにかくも、アニメやゲームの愛好家がコンテンツを媒介物にコミュニケーションする風景が日陰から日向へと移っていった。

上記記事は2008年のものだが、こうした変化は2010年代以降も続いている。よりポップに!よりコミュニケーティブに!そして「俺がコミュニケーション不全なのはオタクだから」という免罪符は完全に失効した。カップルが秋葉原にデートでやって来る時代になったということは、そういうことである。

人の顔色ばかり見ていると、自分の「好き」が分からなくなる

たくさんの人とコンテンツの話題を共有できるようになり、魔法少女アニメを見ていようが彼氏彼女がつくれる時代になったのは良いことだと思う。ただ、人の顔色ばかり見ていると、自分の「好き」が分かりにくくなる。例えば、

  1. 自分はこのコンテンツが好きなのか?
  2. このコンテンツを媒介物として誰かと話しているのが好きなのか?
  3. このコンテンツを手にしている自分を密かに誇りたいのか?
  4. もっと言えば"異性にモテる"ためにコンテンツを消費しているのか?

他人のまなざしに無頓着な、求道者的オタクはシンプルだ。1.が全ての趣味生活。自分が好きなコンテンツをおおむね純粋に消費できる。ただ、ここまで閉じたオタクは珍しい。

実際にありがちなオタクは1.2.の混合に近い。同好の士と身を寄せ合い、コンテンツの話をするのが好き――だから友達が勧めているコンテンツには目を通してみようという欲目が出てくることもある。早くもこの時点で、自分自身の好き嫌いではなく、話題性の高低や「今話題の○○」という謳い文句の操り人形になってしまう者がチラホラと出始めるが、所詮はモテない日陰趣味、自分の好きなものが分からなくなるほど「他人のまなざし」にぐらつかされるリスクはまだ少なかった*4。

ところが、1.2.3.4.そろい踏みともなると、1.のウエイトはどうしたって小さくならざるを得ない。自分が不特定多数からどのように見られているのか?自分がライバル達に差をつけて"カッコいい趣味人"でいられるのか?女子ウケしやすいアクセサリとして機能しているのか?等々......。こういった執着に心奪われすぎると、自分が本当にコンテンツが好きなのか、それともたいして好きではないけれども承認欲求欲しさに消費しているのか、だんだん判別しづらくなる。

こうした判別しづらさは、「自分が好きなコンテンツ」と「皆とコミュニケーションするためのコンテンツ」を自覚的に区別し、前者は前者として一対一で向き合い、後者は後者としてワイワイと楽しむ限り、じゅうぶん克服可能だ。もちろん、こうした区別のために「自分の好きなコンテンツ」をマイナーコンテンツにしなければならない理由など無い。『けいおん!』が好きになってしまった人とて、自分が愛する『けいおん!』を心の神殿に安置しつつ、コンテンツ媒介型コミュニケーションに供するべきは供してしまったって構わない。言い換えるなら、コンテンツ媒介型コミュニケーションに『けいおん!』を動員しながら、自分だけが愛してやまない『けいおん!』のイメージ、キャラクター、心象といったものは頑として譲らず、誰が何と言おうが心の神殿に秘めておけば、自分オリジナルな『けいおん!』愛好と『けいおん!』媒介型コミュニケーションは十分に両立しうる。

要領よくやっている現代の愛好家諸氏は、たぶん、こうした峻別をほとんど無自覚にこなしていて、自分の嗜好を「他人のまなざし」から防御しつつ、コンテンツ媒介型のコミュニケーションを小器用にやってのけているのだろう。コミュニケーションにまつわる心理的欲求が支配的となった"界隈"において、そうした二面作戦をこなしてのけなければ、コミュニケーションの坩堝にたちまち飲み込まれ、自分の好みが分からなくなってしまうだろうから。

しかし、全ての愛好家がそうした二面作戦をこなせるわけでもない。一方の極には、「他人のまなざし」を意識しすぎるあまり、自分の好みがわからなくなっていく人・自分の好みが希薄になっていく人も存在する。自分の好みが分からなくなると、一体全体何のためにコンテンツを消費しているのかが段々分からなくなってくるし、楽しいアニメ体験やゲーム体験の輪郭がぼやけてくる。ひいては、自分の体験の強度、自分の感情の強度が揺らいでくる。これは愛好家としては致命的だ。どれだけ他人に認められようとも、優越した趣味人の外観を獲得しようとも、「好き」という感情を他人のまなざしにアウトソースし続ければ、自分の体験や感情は疎かになってしまうのである。

もともとコンテンツを愛しておらず、ただコンテンツを介して承認欲求を充たしたいだけのコオロギ人間達にとって、そうした「好き」の希薄化はさしたる問題ではないように、一見みえる。けれども、そうした「好き」の希薄化は、自分の「好き」を大切にしている他の愛好家からは高確率で透けて見えるので、その透け具合が交歓会では嫌悪される可能性はある。ライトオタクか、ヘビーオタクかはさしたる問題ではない。コンテンツを愛する気持ちの強弱、誰に認められずとも自分が無我夢中になっている気持ちのウエイトの大小が嗅ぎつけられ、検討され、互いの心象に微妙なフレーバーをもたらすのである。

即ち、

  • 自身の中で練りこまれた「好き」なのか、外部コピペ依存率の高い「好き」なのか。
  • 流行を眺めながらの「好き」なのか、流行だけを眺めている「好き」なのか。

岡田斗司夫さんに言わせれば、オタクは死んだという。なるほど、コンテンツにリソースの全てを投げ出し、他人の評価に一切耳を傾けず求道できるようなオタクのパーセンタイルは著しく下がっただろう。それでも、コンテンツを愛する姿勢やパトスの奔流は、それぞれの愛好家のソウルとしてまだまだ健在だと私は思う。コミケやアニメショップでうっとりコンテンツを眺めている、あの学生達のまなざし!!ストイックな"おたく"は確かに死んだのかもしれないが、コンテンツに嵌ってしまうハプニング、他人のまなざしにではなく自分のコンテンツ執着に引っ張られてウッカリ時間や金銭を費やしてしまうあの感覚はまだ残っている。

そういう意味では、オタクスピリッツのある部分はまだ死にきってはいないし、また死なせてもいけない。ジャンルを問わず、浅い深いにも関係なく、それは趣味人として一番ベースにあるべき欲求だと思うし、また態度でもあると思う。コミュニケーション欲を充たすことは決して悪いことではないが、そちらに気を取られすぎるあまり、自分自身の内側から沸き起こってくるパトス・感動・欲求といったものを疎かにしていては、結局、なんのための趣味生活なのか、誰のための趣味生活なのか、わからなくなってしまうだろう。それはコミュニケーション欲を充たす代償としては決して安くないし、ある意味、人間疎外である。

「世間のランキング」と「自分のランキング」の両立を

だから、コンテンツを愛する心とコミュニケーション欲を天秤にかけながら、前者が後者に塗りつぶされないように気を使っておくのが趣味生活として健康的なんじゃないかと私は思う。そして人の顔色に敏感になる以上に、自分自身のパトスのささやきに敏感になり、自分自身の内からわき出す感情や体験を大切に積んでいくのが肝要だとも思う。他人の言葉で言い換えるなら、

上記ツイートが近い。

遠回りのようにみえて、後々まで自分の財産となって残るのは、「自分のランキング」に相当するようなパトスの宿った体験じゃないか。コンテンツのサーチに「世間のランキング」を使うのはアリとしても、それを検証・賞味するにあたって依存するのはナシだ。できるかぎり己の感性や精神のほうに委ね、好きなものを好きと思える趣味生活を志向するのがベターだと私は信じてやまない。

*1:リンク先のbulldraさん自身も、そのあたり、多分に自覚的のようでもある

*2:「本質的」とは使いどころの難しい、嫌な言葉だが、ここでは使わざるを得ない

*3:補足:当時はスマートフォンもタブレットも大容量ハードディスクも"自炊"技術も無かった点に留意。逆に言えば、現代においてオタクを貫くにあたり、子ども部屋のような空間的余裕は必ずしも必要ではなくなった。

*4:実際には、これに加えて「信頼できるあいつが勧めているのだから、俺にとって面白くないわけがない」問題が混入しているのだが、深入りすると話がややこしくなるので、ここでは省略する

(※この記事は、2013年8月23日の「シロクマの屑籠」から転載しました)

注目記事