「成長する発想」と「成長しない発想」

私が社会に出たのは1997年。今から17年も前のことです。最初に勤めた会社は、福利厚生も充実し、経営も安定し、勤めているだけで社会的な信頼も担保される、とても良い会社でした。

「自分らしさ」にこだわって働いた結果

私が社会に出たのは1997年。今から17年も前のことです。最初に勤めた会社は、福利厚生も充実し、経営も安定し、勤めているだけで社会的な信頼も担保される、とても良い会社でした。

学生の頃までは、私は人とは少し違った視点で物事を捉えると、友人からは評価されていました。流行もの、ありがちなもの、浮ついたもの、軽薄なものに与せず、メジャーなものではなくマニアックなものを好む自分でありたいと思い、自分だけは本質が見えていると信じ、鋭い指摘を入れ、否定する。それが「自分らしさ」でした。

社会人になっても、その「自分らしさ」は絶対に失いたくない、会社に染まりたくない、ありがちなサラリーマンになりたくない、と強く思って働いていました。今風の言い方をすれば、社畜になってたまるか、という気持ちです。

重要ではないプライベートを優先し、部署の飲みを欠席することは当然でした。なんで残業代も出ないのに飲み会に出ないといけないのか、と思っていました。飲みに参加しても、最初の「みんなでとりあえずビール」が嫌で、自分だけ違うお酒を飲んでいました。紺のスーツに白いシャツというありがちな格好が嫌で、絶対に白シャツは着ませんでした。

余暇が充実してない人生なんて終わってると思い、プライベートのほとんどを趣味に使いました。会社は定時に上がり、好きな音楽を聴き、ライブに行くのが楽しみでした。当時は年間300枚以上のCDを買い、年間30~50本くらいのライブを観に行っていました。

もちろん、プライベートまで仕事のことを考えるなんてありえないという考えなので、仕事の持ち帰りや自宅学習なんて一切しませんでした。

日本中が沸いているオリンピックやサッカーの話題に加わるのは負けになるような気がして、自分からは決して話に加わりませんでした。自分の役割分担は明確にし、それ以上の仕事はできるだけ受けないようにしていました。正直、挨拶とか社会人としてのマナーとか、そういうのすごくくだらないと思っていました。

一つ一つの行動やこだわりは、別に悪いことではないでしょう。しかし、そういう姿勢で臨んで働いた4年間は、今、客観的に思い返してみても、あまり成長しませんでした。

もちろん新入社員がまったく成長しないなんてことはありません。別にサボっていたわけではなく、基本的には与えられた仕事は真面目にこなしていました。その会社で身に付けて、今の自分に繋がっている部分は、潜在的には色々あります。

でも、4年間も過ごした割には、優秀な人たちに囲まれた環境にいた割には、様々な学習の機会に満ち溢れていた割には、たいしたことを身に付けることができませんでした。恵まれた機会をもっと有効活用できたな、現在に繋がる何かをもっと獲得できたな、と今はとても後悔しています。

「自分らしさ」が無効化された環境

しばらくして、会社にいるだけの人生は空しいと思い、会社から独立して生きていきたいと思いました。

どうせなら、元々興味があったデザインの仕事がいいと思い、仕事をしながらグラフィックやWebの勉強をしました。ただ、大学も美術系ではなく、実務経験も一切ない私のデザインのスキルというのは、完全に素人の思い込みレベルのものでした。なので、いきなり独立ではなく、いくつかの会社で経験を積んでから、独立しようと思っていました。

そんな私を雇ってくれるありがたい会社がありました。私は、高校受験をして高校に入り、浪人をして大学に入り、就職浪人をして大企業に入るという、失敗をしながら長い時間かけて繋ぎあわせてきた人生のレールを断ち切り、10人にも満たない小さな広告会社に、未経験のWebデザイナーとして就職しました。2001年、28歳の時でした。

その新しい環境では、学生時代から保持してきた「自分らしさ」なんてものにこだわっている余裕は一切ありませんでした。

28歳はデザインを始めるには遅すぎると言われたこともありました。だから、仕事に付いていけないと会社に捨てられるかも、と思っていました。年齢に関係なく、周りにいるすべての人が先輩で、できる限り短期間で吸収しないとやばいと思っていました。ランチや飲み会などの社内交流には積極的に参加し、できるだけ話をし、少しでも知識や考えや彼らの体験を学ぼうとしました。

サッカーには元々まったく興味がなかったけど、2002年の日韓ワールドカップも、同僚や先輩がそれに関わる仕事をしていたので、自分もできるだけ関心を持って関わるようにしました。

広告に関わる仕事なので、流行が嫌いだのなんだのと言っていられないと思い、できるだけ流行を受け入れるようにしました。それが軽薄だろうが、下世話だろうが、何かが流行るには理由があるはず、という目で見るようになりました。

仕事の中のスキルアップだけだと明らかに不十分だったので、プライベートの時間もできるだけ勉強に費やしました。自分のWebサイトを作ったり、デザインポータルを立ち上げたり、好きなデザインを模倣した作品を作ったりしていました。

この時期は、大好きだった音楽からも遠ざかり、新しい音楽もほとんど買わず、ライブには一切行かなくなりました。

独立するからには、自分が仕切れないといけないと思い、役割分担とは関係なく、デザイン以外の役回りも自分から行いました。営業やシステムにも、可能な範囲で関わりました。デザインを説明するのに設計やマーケティングの知識も必要だから、そういう本を読んだり、そういうのが得意な人がいたら積極的に話を聴くようにしました。

そうやって仕事の幅を広げていくと、いろいろな業界や年齢の人と接しなければならなくなり、挨拶やビジネスマナーの大切さを思い知るようになりました。

環境よりも大きかった自分自身の物事の捉え方

最初の4年間と比べれば、このときの職場環境は恵まれていませんでした。年収も大幅ダウンしました。何日も徹夜することは当たり前でした。プライベートの自由な時間もほぼなくなりました。「自分らしさ」なんてものがどこにあるのか分からなくもなりました。完全に量産型のWebデザイナーになりました。

しかし、今、客観的に見ても、最初の4年間より、この2~3年の成長の方がはるかに大きかったと断言できます。知識や技術だけじゃなく、モノの考え方、人との接し方、社会で起こっていることの捉え方、仕事観、人生観、会社とは何か、人に何かを伝えるとはなんなのか、自分のしたいことと世の中のニーズと重なるところ/ずれているところ、などなど。あらゆる面の意識が大きく変わりました。

本当は社会人1年目で身に付けなければいけないものが、まったく身に付いていなかったので、成長して当然だったわけでもありますが・・・。

社会人最初の4年間と、Webデザイナーに転職してからの2~3年。その期間で、私自身の基本的な能力のポテンシャルに大きな違いはなかったでしょう。働く環境でいえば、最初の4年間の方が圧倒的に恵まれていました。

しかし、職務内容の違いを考慮に入れても、今の自分の礎になる大事な成長を経験したのは、明らかに、恵まれていない環境で働いていた期間でした。悪い環境の方が成長する、などという極論を論じる気は毛頭ありませんが、労働環境や教育体制と、成長の度合いは、私の場合は無関係でした。

「自分らしさ」が生んだ多くの「成長しない発想」

人間は誰しも、成長する可能性を秘めています。しかし、その可能性を一番閉ざしてしまうのは、実は働く環境ではなく、自分自身の心の持ち方なのだと思います。

特に、すぐに他者や環境を否定し、自分の行動や変化を抑制するタイプのネガティブ発想は、成長の最大の敵です。せっかく成長する機会が目の前に現れても、安易に乗っかるのを恥ずかしいと思い、それを否定し、チャンスを放棄し、自分は軽くない人間だといってその行動を正当化し、ずっと同じ場所に居続けてしまいます。結果、成長する周囲に差をつけられ、時代に取り残され、やがて「できない人」になっていくのでしょう。

逆に、この、他者否定型・行動抑制型のネガティブ発想=成長しない発想をしなくなるだけで、成長のチャンスは大きく広がります。ただそれだけで、可能性が広がります。

過去の私自身を振り返ってみても、自分の成長を分けたのは、環境を変えたことそのものではなく、「成長しない発想」をやめて、「成長する発想」に転換したことが非常に大きかったです。私が陥っていたこの「自分らしさ」病に起因する「成長しない発想」と、その後の「成長する発想」の違いを、少し整理してみました。

■めんどくさそうだ、やめておこう→面白そうだ、やってみよう

未体験のことを、めんどくさそうと思うか、面白そうと思うかで、チャンスの多い・少ないが決まります。

■それをしたら損をするのでは→それをしたら得をするのでは

未経験のことをするときに、そのメリットより、デメリットにばかり目が行って尻込みすることは、その時点で多くのものを失います。

■どうせ無理→なんとかなるかも

立てた目標を達成できるかどうかは、能力の差ではなく、時間があるかどうかでもなく、とにかくなんとかしようと思うか、あるいは最初からあきらめる準備をしているかの違いだったりしないでしょうか。

■それは嫌い→それは好きになるかもしれない

やったことないこと、精通してないことに、好きも嫌いもないはずなのに、それを最初から嫌いといって拒絶するのは、チャンスを失いやすい発想です。

■そのことは自分には向いてない→そのことはやるべきだろう

向き不向きなんて、本当はやってみるまで分かりません。なのに、やるべきか、やらざるべきかの判断ではなく、最初から自分には向いてないと決めつけてかかるクセがあると、多くのチャンスを失うでしょう。

■参考にならない。無駄だった→何か参考にできることがあるはずだ

いつも最高の経験ばかりで人生を過ごすことなんてできません。良くない経験もそこから学べること、反面教師にできることは色々あるはずです。経験を無駄にしているのは、他人でも会社でもなく、自分自身ではないでしょうか。

■それは自分の役割じゃない。関係ない→自分の周りのことはできるだけ知っておこう

自分の責任範囲しか見ないで仕事をする人と、周囲で起こっていることも自分事としてとらえる人では、同じ1日8時間の労働時間でも、経験することの量も質も変わります。これが1年、2年と続くと、成長する人としない人の、大きな差になるのではないでしょうか。

■流行に乗るなんて恥ずかしい→流行ってるのはなぜだろう?何か理由があるのでは?

世の中で起こっていることをシャットダウンしても、成長はしません。好き嫌いではなく、なぜそうなのかを考えられれば、自然と耳に入ってくる雑音も、貴重な情報源になるでしょう。

■簡単に動かない、変わらない自分は冷静沈着でクレバーだ→何か行動しないとまずい

動くべきか、動かざるべきかは状況にもよりますし、無計画な行動が良いわけではありません。ただ、いつも流行に乗ることを嫌い、いつもじっとしている自分が好きな人は、いつも出遅れ、いつも成長機会を失っていると気付くべきでしょう。

■もうできない→まだやれる

物事、工夫をすれば、無理な状況を覆したり、代替案で近い効果を得る方法を考える余地はあったりします。目標まで到達できるかは、やれると考えるか、諦めるかの違いだけだったりしないでしょうか。

■失敗例があるから、やらない方が利口だ→成功例があるから、できるかもしれない

物事には、成功も失敗もあり得ます。なので、単に億劫で自分がしたくないということにだって、さも正しいかのような例を集めてくることはできるのです。その判断は本当に、冷静な「撤退」の判断なのでしょうか。ただ単に、変わりたくない自分を正当化しているだけじゃないでしょうか?

成功者の体験談を都合よく解釈することのリスク

かつて、「自分らしさ」を大事にして「成長しない発想」でいることを支えていたのは、成功者や、かっこいい生き方をしている人たちのこんな言葉でした。

「人からダメだと言われたが、自分は信念を貫いた」

「誰も評価してくれなかったが、自分は成功すると信じていた」

「大事なのは、自分を信じることだ」

しかし、これがトラップでした。確かにそうなのでしょう。大きな成功や成果を手にする人は、自分の信念やスタイルを大切にしているのでしょう。しかし、現実には、自分の信念やスタイルにこだわって成功する人と、ちっとも成長せず、ただのひねくれもので終わる人が存在します。両者に違いがあるとすれば、それは、目指すべき明確な目標やビジョン、志、それに伴う行動力があるか、という点ではないでしょうか。

最初の私のように、明確な目標もビジョンも、裏打ちするスキルもないのに、プライドだけはいっちょまえ、あれはしたくない、これはかっこ悪い、こんな社会人になりたくない、という文句が多く、あまり行動せず、目標とは紐付かない根拠のない「自分らしさ」を最優先で考える人は、殻に閉じこもり、成長せず、どこにも向かわず、何も成し遂げられません。

自分らしさや自分のスタイルが意味を成してくるのは、明確な目標やそれに伴ったスキルがあり、それらが相乗効果を発揮するときだけです。

そして成功する人というのは、大きな意味の「自分らしさ」にこだわりつつ、目標と合致しない細かなこだわりはすぐに捨てるような、そういう柔軟さも持ち合わせているのではないでしょうか。私自身は決して成功を収めた人間ではありませんが、そんな気がしてなりません。

私の経験、あるいは周囲の人を見ても、就職でも転職でも起業でもいいのですが、新しい環境に飛び込むときは、妙な「自分スタイル」は捨てて、すべてをいったん受け入れた方が、成長できる可能性がぐっと高まるというのは、ほぼ確実に言えることです。

それを社畜とバカにする人もいるかもしれません。狂信的になったり、違法行為に手を染めたり、うつ病になるまで働けとは思いません。でも、自分のこだわりはいったん捨てて、新しい環境にある程度どっぷりつかってしまおうと覚悟することは、「成長する発想」を促す、ひいては自分の秘められた能力を最大限引き出す、とても大事な心構えなのだと思います。

「自分らしさ」をいったん置くのは、目標を見つけるため

私が「成長しない発想」をやめられたのは、目標が見つかったからでした。しかし、目標というのは、実はそんなにすぐには見つからないんじゃないかな、とも思います。私も、社会人になって2~3年過ぎるまで、目標なんて見つかりませんでした。明確な目標が見つからないまま働いている人の方が、世の中には多い気もします。たまたま目標と思いこめるものを見つけられた私は、運が良かったのだとも思います。

しかし、大きな目標がないのならなおさら、まずは、24時間仕事にドップリ浸かるような濃密な時間を過ごした方がいいと、私は思います。濃い体験をしているから、自分のしたいこと、したくないこと、向いていると思えることが、際立って見えてきます。何を目標にすればいいか、ハッキリしてきます。すべての経験が無駄にならず、次のステップに活きてきます。

一方、これといった明確な目標やビジョンもないのに、社会との摩擦や努力から逃げることを正当化するためだけの「自分らしさ」にこだわり、「成長しない発想」で日々を過ごし、淡泊に仕事をする習慣がついてしまうと、実りの少ない、中身の薄い毎日を過ごしてしまいます。そして、後でやりたいことが見つかった時に、経験をうまくリサイクルできなくなります。私のように、人より出遅れたキャリアを歩んでしまいます。

いやいや、忙しすぎるとゆっくり考える暇がなくなるよ、なんていう人もいるでしょう。しかし、果たしてそうでしょうか。そういう人は、例え時間があっても、決断を後回しにするだけではないでしょうか。むしろ、忙しい状態、脳みそがフル回転している状態、このままではいけないという焦燥感に追われている状態の方が、自分のキャリアや仕事というものを真剣に考え、少ない時間から行動する時間を捻り出したりしないでしょうか。

もちろん、働き方も価値観も人それぞれで、何が正しいわけでもなく、幸福は自分で決めるものですが、以前の私のように、根拠のない「自分らしさ」にこだわるあまり、「成長しない発想」に取りつかれ、貴重なチャンスを活かさず、実り少なく過ごしてしまったと後悔する人が無駄に増えないよう、自分の経験を少し書き連ねてみました。

(2014年2月19日「sogitani.baigie.blog」より転載)

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