連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (7)

国連は完璧ではありませんし、全員が必ずしも平等ではありません。でも、それが自分のやりたいことであるなら、生きがいと喜びを見出せます。

日本は国連に加盟し60周年を迎えます。この機会に、国連広報センターでは国連の日本人職員OB・OGの方々にインタビューを実施し、国連での日本のあゆみを振り返ります。元職員だからこそ語れる貴重な当時のエピソードや考えを掲載します。

「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (7)

黒田順子(くろだ みちこ)さん

-国連の本部と現場の狭間で、結果を出すために奔走した日々-

第7回は、国連機関で30年に及ぶ勤務経験を持つ黒田順子さんです。東ティモールで国連平和維持および平和構築活動に官房長(Chief of Staff)として携わった経験を中心にご紹介します。国連の調停者(メディエーター)の資格を有する黒田さんは、その知識を応用することにより紛争予防にも貢献するなど、東ティモールの平和づくりに尽力されました。現在は、米ニューヨークのマーシー大学で客員教授及び研究員として紛争解決、国際交渉、国際安全保障の授業を担当し、若い世代にご自身の培われた経験を精力的に伝えていらっしゃいます。

【1974年、津田塾大学国際関係学科卒業。1978年、ベルギーのカソリックルーバン大学で修士を取得。ジョージタウン大学大学院とジュネーブの高等問題国際研究所に留学し、1980年に筑波大学大学院で修士号を取得。ジュネーブの国際労働機関(ILO)、国連欧州本部を経て、ニューヨークの国連本部事務局に転勤。マネージメント・アナリスト、評価、監査の仕事を経て、PKO局に移動。国連平和維持活動に関する業務、オンブズマン室で職場の紛争管理の仕事を歴任。2004-2006年、国連東ティモール平和維持及び平和構築活動(UNMISET/UNOTIL/UNMIT)で官房長として勤務。2007年より国連本部に戻り、能力開発プログラム(Capacity Development Programme)の特別シニア・コーディネーター。2010年からはコンサルタントとして国連に勤務。2011年から米ニューヨークのマーシー大学で客員教授及び研究員を務め、現在に至る。2016年から、国連のエグゼクティブ・コーチとしても活躍】

国連職員になるきっかけ

中学、高校生の頃、日本はなぜ第二次世界大戦に参加したのだろうかということに疑問を感じていました。やがて社会科の授業で国際連合のことを知り、国連憲章や人権宣言を学んだ際には、世界にはこのようなこともあるのかと感動しました。もともと将来は医者になりたかったのですが、父親に説得されて断念し、大学では国際関係学科に進みました。

そんなわけで大学時代は反抗期で、あまり熱心な学生ではありませんでした。それでも国際法だけはとても面白いと思い、勉強しました。卒論を書くために国連総会の決議文を探す必要があり、図書館で見つけた時には、身体が震えるほど興奮したのを覚えています。そして、いつかは国連で働きたいと考えるようになりました。卒業後は米国企業に就職したものの、仕事内容には満足していませんでした。

そんなある時、国連での勤務経験を持つ大学教授にこう言われました。「国連で働きたいのなら、修士を取りなさい」。私は奮起し、偶然にも新設大学院での募集を見つけて応募したところ、入学が叶ったのです。大学院時代には奨学金を得て、ベルギーや米国、スイスへの留学も果たしました。

一心で勉強し、外務省のアソシエート・エキスパートの試験に合格したのは29歳の時でした。ジュネーブの国際労働機関(ILO)での勤務を皮切りに、私の国連でのキャリアが始まったのです。その後、ジュネーブで国連欧州本部に移り、ニューヨークの国連本部に転勤となりました。PKO活動の現場で勤務した約2年も含め、およそ30年にわたって国連機関に勤務しました。

ニューヨーク転勤後、国連本部の前で、家族と共に(1992年)

ニューヨーク国連本部での勤務 ― 政策決定に参加する醍醐味を知る

最も印象に残っている仕事は、国連の平和維持及び平和構築業務に、本部と現場の双方で携わったことです。2001年から2003年まではニューヨークのPKO局で、PKO業務を強化する仕事に関わりました。冷戦時代に安全保障理事会が麻痺していたことの反動から、当時はPKOに関する決議が急に乱発されるようになっていました。

事務局側には経験や能力が十分に備わっていなかったため、コフィー・アナン事務総長(当時)が国連平和活動の再検討を行うために独立パネルを設置し、PKO業務の強化のための勧告を発表したのです。これが2000年に発表された「ブラヒミ報告書」です。PKO局はこれを受けて、強化策を講ずるべく、企画と実行の準備をしていました。

そうした背景の中で、私はPKO局のマイケル・シーハン事務次長補に認められ、直属の部下になりました。シーハン氏は米国の元軍事人で、ホワイトハウス勤務経験のある大使級の外交官で、大変なやり手でした。私がマネージメント分析や戦略展開などのアイデアを提案すると、即座に取り入れてくれました。

特に印象に残っているのは、PKO特別委員会(C-34)で構成国を相手に、速攻展開能力(Rapid Deployment Capacity)を強化するための対策を提案し、説得する任務を任された時のことです。当時、C-34では委員会のメンバーを相手にプレゼンをすることなどなかったので、この試みは歓迎され、その結果、構成国とPKO局との関係が改善されて各国政府のサポートを得ることができました。総会が国連事務局の提案を受けて1.4億ドル相当のプロジェクトを許可したのは、当時としては異例でした。

実はその頃、私は自動車事故で足を骨折していたため、C-34の会合には車椅子で参加したこともありました。そうした状況も影響したのかわかりませんが、国連の政府間交渉の面白さと重要さを、しみじみと噛みしめた次第です。

東ティモールPKOミッション ― 本部と現場の狭間で

一度は現場で働きたいと考えていたところ、東ティモールの平和維持活動と平和構築活動を担当するミッションで官房長(Chief of Staff)のポストに就くことになりました(2004-2006年)。同国での平和維持活動は、その任務内容の変遷によって、国連東ティモール支援団(UNMISET)、国連東ティモール事務所(UNOTIL)、国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)へと変わり、UNMITは2012年12月末にその任務を終了しています。

私が官房長に就いた当時、日本の長谷川祐弘氏が東ティモールを担当する国連事務総長特別代表を務め、アトゥール・カレ氏が代行でした。カレ氏は現在、国連のフィールド支援担当事務次長(フィールド支援局長)です。こうした方々の下で勤務できたことは幸運で、PKOオペレーションに関する多くのことを学びました。東ティモールでの勤務は私の30年の国連のキャリアで最も興味深く、かけがえのない経験です。自分の力を全て出し尽くしたと言えると思います。

東ティモール国連事務総長特別代表代行を務め、現在はフィールド支援局を率いるアトゥール・カレ事務次長と共に(2005年)

官房長時代の2006年4月、東ティモールで紛争が再発しました。治安も政治も不安定な中、軍事部門の提出した陳情書を政府がまともに取り扱わなかったことから不満が浮上し、エスカレートしました。デモ隊行進に発展し、首都ディリで暴動が起こりました。東部対西部の紛争により、家の焼き討ちなどへ拡大し、15万人の避難民と30数名の犠牲者も出ました。

このような経験は、私にとって初めででしたが、官房長としては船が沈んでも現場にいる意気込みで構えていました。そんな中、デモ隊の指導的立場にあった将校から、政府側とのメディエーション(Mediation、仲介)を行ってほしいと要請されました。メディエーター(Mediator)の資格を取っていた私は、こうした機会が訪れることを願っていました。ところが仲介予定の当日、本部のPKO局から「応じるべきでない」と携帯電話を通じて言われました。

国連憲章の第33条にその可能性が示されているはずですが、PKO局の指令は絶対です。現場では広義のMediation が実際には行われていたものの、PKO局はMediationの必要性についての認識がなかったのでしょう。私は大変に悔しい思いをしました。

東ティモールで。遠隔地への視察はヘリコプターを使って

当時の東ティモール政府はオーストラリア政府に軍を派遣してもらい、治安問題は一件落着したかに見えました。しかし、紛争の原因を解決したわけではないので、不安は残りました。同年夏に長谷川特別代表は帰国され、多くのPKO要員も徐々に去って行きました。その後、特別代表代行としてUNMITを主導したフィン・リースケン氏は官房長である私を信頼して下さり、文字通り二人三脚で当時の状況を乗り切ったと言えます。

2006年4月の紛争再発は5月には襲撃事件へとエスカレートし、東ティモールの警察官や国連の要員に死傷者も出ました。この件に関して、東ティモール政府は国連に特別調査を依頼し、10月2日にそれが発表されることになっていました。私は調査結果に名前を挙げられた兵士たちが反発して襲撃を始め、紛争が再び勃発するのではないかという早期警報と危機感がよぎりました。

このことを特別代行に伝えると、「確かにそうだ。予防措置を取ろう」ということになり、残った職員と協力しながら紛争要因の分析をし、早期警報シナリオを作りました。そのうちに、やはり対話が必要だということで、政府の高官や主要機関、そして軍事、警察部門へと代行と共に連日出向いて回り、対話を試みました。

その結果、最も良い方法は当時のグスマン大統領が他の指導者と一緒になり、国民の前に出て話をすることだろうということになりました。カトリック教徒が90%以上の国なので神父の承諾と協力も得て、ディリにあるすべての教会にポスターを貼ってもらうことにも同意してもらえました。

グスマン大統領と共に。東ティモール政府とUNMITSETのサッカー対抗試合で(2004年)

こうしたプロセスは、国連事務総長やその代表に与えられた権限の一環である「斡旋(good offices)」です。

多くのグループと対話をしたことで、一般市民の参加を進め、包括性(inclusiveness)が確保できたと思います。グスマン大統領が国民の前に出て話をすることに関しては氏の承諾を得ることが必要でしたが、なかなか承諾が下りず、こちらも辛抱強く粘りました。

最終的には「OK」と言ってくださり、国連のミッションはこれを支援するという合意を取りつけることができました。後日、大統領は他の4人の指導者と一体になって、国民にテレビでメッセージを送ったのです。

「東ティモール人は平和愛好者である。今回、国連からの報告書が発表されても、すぐに反応してはいけない。事実を受け止めよう。必要なことは、法の支配にのっとり、我々自身で措置をとるのだ」と。

今でも、当時の大統領の姿が思い起こされます。その結果が講じて、報告書が発表された際に、武器を取る者は誰一人としていませんでした。早期警報と勘に基づいて早期対応したことは正解だったと思い、とても嬉しかったことを覚えています。この時ばかりはPKO本部も私たちの仕事を評価してくれました。現地の平和にとって重要なことをすれば、納得してくれるのだと私は確信しました。

2006年5月の危機後、IDPキャンプに避難した東ティモールの子どもたちとの対話から

これからの人生設計

私は、働くために生まれてきたと考えています。命のある限り、社会に貢献し続けるつもりです。現在、米ニューヨークのマーシー大学で教鞭を取っています。目を輝かしながら私の講義を聞いてくれる学生を指導し 、エンパワーすることは喜びです。

同時に、国連でも時々コンサルタントとして勤務しています。政治局のMediatorとして、そして国連開発計画(UNDP)の平和構築アドバイザーとしてスタンバイしています。今後は原稿や論文を書いて、国連に関することを発信できたらと考えています。最近、ライフコーチの訓練を受け、国際コーチ連盟から認定されました。

実は、このブログを書いている最中に国連から連絡があり、国連のエグゼクティブ・コーチになりました。国連の指導者を相手にコーチングをすることは、国連の仕事に携わることになり、光栄であり、生き甲斐です。

模擬国連ニューヨーク大会後の国連での表彰式。マーシー大学は見事入賞を果たした(2015年)

日本の若者、特に国連職員を目指す若者に対して期待すること

まず、自分が何をやりたいのかを見つけて下さい。心から湧き立つほどやりたいことを見つけて下さい。すると必ず、道が開かれます。自分の人生は、自分で決めることです。そうすれば、絶対に悔いのない人生が送れます。国連は完璧ではありませんし、全員が必ずしも平等ではありません。でも、それが自分のやりたいことであるなら、生きがいと喜びを見出せます。

日本人には、独特の資質や能力があります。私たちは勤勉さ、誠実さや、信頼、さらには人の意見を聴く姿勢と能力、そしてそれを深く読み取る能力などに長けています。国連は他の文化や国から来た人々と顔をつき合わせて国際的な仕事ができ、世界が見えてきます。やる気があり、集中すれば大丈夫。ぜひまい進することをお勧めします。

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