「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (6)

世界で起こることに少しでも興味があるなら、選択肢を少し広げるだけで、国連がすぐそこに見えてくるはずです。

日本は国連に加盟し60周年を迎えます。この機会に、国連広報センターでは国連の日本人職員OB・OGの方々にインタビューを実施し、国連での日本のあゆみを振り返ります。元職員だからこそ語れる貴重な当時のエピソードや考えを掲載します。

「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (6)

佐藤純子(さとうじゅんこ)さん

―国連の図書館で垣間見た国際政治と時代の変化-

第6回は、国連のダグ・ハマーショルド・ライブラリーに長年勤務された佐藤純子さんです。国連資料のIndexづくりを専門とし、国連文書に造形が深い佐藤さんですが、公式な仕事とは別に、過去には、ニューヨーク国連日本人職員会の会長や、日本人国連職員有志の同人雑誌「国連人」編集長を務めたり、現在は、AFICS-Japan(国連システム元国際公務員日本協会)の執行委員を務めたりするなど、日本人国連職員の方々に幅広いつながりをもつ方です。

おしゃれでエレガントな佐藤さんはいつお会いしても、やさしい笑顔で、ざっくばらんにいろいろなお話しをしてくれます。インタビューさせていただいた日も気づけば、あっという間に時間がたっていました。(聞き手:千葉潔)

(1979年、米国のロングアイランド大学・パーマー図書館大学院で図書館情報学修士号を取得。1980年に国連のダグ・ハマーショルド・ライブラリー勤務開始。その後、同ライブラリーにおいて、「国連文書索引」 編集者や索引作成班の班長などを経て、索引作成課で集書や収集を担当する課長を務める。現在、早稲田大学大学院のアジア太平洋研究科で教べんをとる。)

――国連では、どのようなお仕事をされていたのですか。

国連の図書館であるダグ・ハマーショルド・ライブラリー(以下、ハマーショルド・ライブラリー)で、国連文書の主題分析をする「Index」をつくる仕事をしていました。

簡単に言えば、国連で発行される刊行物や文書を「アフリカ」、「経済開発」、「社会開発」、「人権」といったSubject(主題)ごとに分類し、それら資料のデータベースを構築する仕事です。今、国連文書を入手する人たちはUNBIS-netやODSといった検索ツールを利用されていると思いますが、それらはみな、私たちがつくる文書情報のデータベースをもとにしています。

ハマーショルド・ライブラリーにおいて、私が最後に担ったのは、このIndexの仕事と、書籍の購入/受け入れ、デジタル化というという3つの仕事を遂行する部署の統括責任者という職責でした。予算としては、ライブラリーで人件費以外のすべてをカバーする幅広い仕事で、制限された予算のなかで、最大限の効果を生む活動をするため、お金のやりくりにはとても苦労しましたが、それも今では懐かしい思い出です。

――佐藤さんが働かれていたライブラリーについて教えてください。そもそもなぜ、ライブラリーに第2代事務総長の名前を冠しているのですか。

現在、ハマーショルド・ライブラリーは、国連広報局のアウトリーチのもとに置かれ、さきほどお話ししたIndexづくりばかりでなく、歴史的文書のデジタル化をしたり、リサーチや情報提供サービスや国連寄託図書館制度の維持管理をしたり、幅広い活動をしています。

創設当初から、国連に図書館はありました。各国政府の代表団の利用に供するために、当初は、事務局の中の会議局の一部として設置されたのです。でも、図書館と呼ぶにはそのスペースは十分なものではありませんでした。

その後、1953年に第2代事務総長としてダグ・ハマーショルドが就任しますが、彼は非常に文化的な人で、図書館というものを大切に考える人だったのですね。国連のライブラリーはもっとしっかりしたものにしなければならないと強く思ったようです。彼がいろいろと尽力した甲斐あって、1959年にはフォード財団から620万ドルの寄付を得て、国連の新しいライブラリーがつくられることになり、1961年11月16日、正式に開館したのです。

残念ながら、ハマーショルドその人は完工を見ることなく、その約2か月前の9月18日にコンゴでの和平ミッション遂行中、搭乗機の墜落事故で死去するのですが、国連の加盟国は、死去の直前まで、図書館建設の準備の陣頭指揮をとっていたハマーショルドの労をねぎらい、その年の10月16日、国連総会で決議を採択し、この新しい図書館を「ダグ・ハマーショルド・ライブラリー」と名づけることを決めたのです。

ダグ・ハマーショルドは多くの人々の尊敬を集めた事務総長でした。私自身、普段しょっちゅう口に出して言うということはありませんが、彼の名前を冠したライブラリーで働くことにはひとつの誇りを感じていました。ハマーショルド・ライブラリーでともに働いた同僚たちもみな、同じ思いを持っていました。

今、ライブラリーがつくったレファレンスのウェブページには、「Ask Dag(質問はダグに)」というネーミングがされています。ハマーショルドは、こういうふうに自分がファーストネームで呼ばれることになるとは思っていなかったでしょう。でも、きっと喜んでいるのじゃないかなと思いますね。

――早速ですが、ライブラリーの舞台裏のエピソードをお聞かせいただけますでしょうか。

図書館とはいっても、その業務においては、国連らしく、国際政治を感じることがたくさんあったということでしょうか。安保理の文書として、加盟各国から2国間の紛争に関する書簡などが頻繁にだされるわけですが、私たち職員がデータベースにそれらの書簡の書誌情報を入力する際には、政治的な表現に十分気をつけなければなりません。

たとえば、イスラエルの書簡において、PLO(当時)のテロ活動(terrorist activities)がけしからんといったようなことが書かかれていたとしても、そうした政治的な緊張を生むような言葉は決して、主題や注釈などに抜き出して目立たせたりしてはならないのです。過去にそうした配慮を怠り、その職を失った職員がいるという話を聴いたとき、国連というところでは、そうした政治的な誤りは致命的なことなのだとつくづく思ったことを覚えています。

――インターネットの登場、情報技術の発展は、ハマーショルド・ライブラリーの業務にどんな影響を与えましたか。また、現場で、そうした影響をどのように感じられましたか。

国連文書情報のコンピュータ化、電子化の試みは、ハマーショルド・ライブラリーの主導で、1960年代半ばから始まっていました。"United Nations Documents Information System (UNDIS)"というものが、コンピュータ化における、国連文書インデックスの最初のシステムでした。

その後、その欠点を補い、国連文書以外の蔵書目録を電子化するため、新しい書誌情報システムとして、"United Nations Bibliographic Information System(UNBIS I)"というものが開発されました。

当時、このシステムはまだ、国連事務局のIBMメインフレーム・コンピュータ内に存在していました。私はリバイザーという立場で、編集・校閲を担当していましたが、Indexの仕事は手作業で、職員たちがまずはトピックや主題を入力用紙に書いていたことを覚えています。その情報をキーパンチャーがコンピュータに入力していました。今とは隔世の感がありますよね。

情報技術の発展とともに、私たちがインデックスを行った国連の刊行物の書誌情報は紙媒体で印刷されたものから、UNBIS on CD Rom、そしてUNBIS-netへと移っていき、また国連公式文書システム(ODS)という公式文書を入手するためのツールもインターネット上で1992年に立ち上げられ、いろいろな変遷を経て、当初は有料だったものが、その後、無料開放されました。

ハマーショルド・ライブラリーで働く私は、そうした動きを時代の変化として肌で感じていました。従来は限られた人たちに利用されるだけだった私たちの仕事の成果が今や、世界の人たちにとって容易にアクセス可能なものになり、お役立ていただけるようになったのは、まさにインターネットの発展の結果です

ちなみに、ODSはさらにその後、何回かの改訂を経て、つい最近リニューアルされたものは相当使い勝手が良いものになっていると思います。これから、さらに情報技術は発展し、それとともに図書館業務は大きな変容を迫られることになるのでしょうが、図書館としては、その変容をポジティブにとらえて、対応していくことが必要だと思います。

――国連で働くようになったきっかけはなんですか。

私は大学では史学科に在籍し、歴史を勉強していました。就職ということになるとみんな、社会科の先生になろうとするのですが、募集人数は限られていて狭き門ですから、そんなに簡単なことではないのですね。結局、私は企業に就職して、それから2年後に結婚して専業主婦になりました。しばらくすると、やっぱり働きたいんですよね。

でも、専門性を身に着けなければいけないので、進学先をいろいろと考えたのですが、今度は、自分が好きなことで、かつ就職先が比較的見つかるところを考えました。自分にとってはそれが図書館でした。それで、大学院では、プロフェッショナル・ライブラリーを勉強する図書館学を専攻しました。

国連に働き始めるようになったのは偶然です。大学院を卒業後、就職先をさがしていたところ、たまたま、私の夫が、知り合いを通じて、国連の図書館で、職員を探しているということを聞いて、私に教えてくれたのです。私は米国で働くための就労ビザを持っていなかったので、米国で就職先を見つけることはあきらめていたのですが、国連では、G4ビザというものが発行されるから大丈夫だということを知り、意気揚々と試験に臨みました。

応募者は他にも多くいたようなのですが、当時、国連で働いている日本人は少なく、ハマーショルド・ライブラリーでは160人中、日本人はわずかに一人。ということで、国連としては、できれば日本人を採用したいと、候補者のなかで私が断然優位な立場に置かれたようでした。そして、とんとん拍子に話が進み、国連で無事雇われることになったのです。当時、まだ競争試験の制度もなかった頃の話です。

――今、振り返って、国連で働いてよかったと思うことはなんですか。

そうですねえ。もちろん大変なこともいろいろとあることはあったのですが、今思えば、すべてが楽しかったです。ほんとうに国連で働けてよかったと思います。とくに、いろいろな国の人と一緒に働けたことがとても楽しかったです。国連が発行する文書として、"Composition of the Secretariat"というタイトルがついた文書があるのですが、この文書をみると、国連加盟国の193カ国のうち、どの国からそれぞれ何人ぐらい、どのレベルで、国連職員として働いている人がいるのか、正確な数字を知ることができます。

国連職員の国籍は必ずしも193のすべてにまたがるわけではありませんが、最新の文書(A/71/360)によれば、今年6月時点で、国連事務局には187カ国の人たちが働いているということです。

つまり、国連では、世界のほとんどの国の人が働いていて、さまざまな文化を背景にもつ人たちとともに、国連の目的を共有し働くことができるのです。もちろん、なによりも、多様な価値を大切し、尊重することが求められますが、そうしたさまざまな国籍の人たちのなかに身を置いて働けるということは、国連で働くことの最大の醍醐味のひとつでしょう。

――国連での勤務を振り返って、あのときこうすればよかったと思うことはありますか

いろいろなプロジェクトの実施場面で、ああすればよかった、こうすればよかったと思うことはもちろんたくさんあります。国連で働くという視点で、私が今もっとも思うのは、もっと別なことにもいろいろとチャレンジすればよかったし、それはきっと楽しかっただろうなということです。

私はニューヨークの国連事務局でIndexという仕事を専門としてきたのですが、キャリア後半で、ニューヨークを飛び出し、アジア地域などで、研修セミナーを企画、開催する機会がありました。

普段はあまりそうしたことはしないのですが、セミナーの統括責任者として、そのための資金集めをしたり、会議の開催国と国連の間で交わす「ホスト国協定(host country agreement)」と呼ばれる文書などをつくったりするところまでやらざるを得ないことになり、慣れないことで苦労はあったのですが、それはそれで新鮮で楽しかったのですね。もっとそういうことにチャレンジすればよかったとほんとうに思います。

実際に、今、国連ではmobilityということが重視され、国連職員が地位的、職域的に幅をもつことが奨励されています。自分を高めることにもなることですし、これから国連職員になろうとされる方は、積極的に、幅広く、いろいろなことに挑戦することをお勧めします。

――国連で働くことに興味がある若い人たちに何かアドバイスはありますか。

国連にはいろいろな入り方があるので、一様には言えませんが、もしも国連で働くことに強い関心があるとしたら、早い段階で、ある程度明確に意識したほうが得策だと思います。

日本人はラッキーなことに、YPPやJPOの制度を利用することができますが、日本人であれば、これらの制度は積極的に利用すべきだと思います。そして、それらには、年齢制限があることをよく考えるべきだと思います。

年に一回の国連事務局若手職員を採用するための試験、YPPプログラムの受験資格は32歳以下ですし、同様に、国際機関で正規職員として勤務することを志望する若手邦人を対象に外務省が実施しているジュニア・プロフェッショナル・オフィサー制度(JPO)は35歳以下です。

年齢制限に達するまで、何回でも受験可能ですが、国連職員になるには、大学院で修士号を取得し、職業経験を有していることが望まれることを考えると、そうした条件をクリアして受験しようとすれば、やはり手遅れにならないように計画的に進めていったほうが賢明だと思うのです。

――日本では、国連には興味があっても国連で働くというところまでは考えたことはないという方々も多くおられますが、そうした人たちに何かメッセージはありますか。

国連はいろいろなことをやっているということ、したがって、いろいろな働き口があるということです。日頃、みなさんの関心が高いPKO、開発援助の職種ばかりではなく、法律関係もあるし、会計もある。また、地図の作成部署もあります。世界各地で国際紛争が起こって、境界線を変更する必要がでると、その都度、地図を修正しますから、そこに働く人が必要になるのです。

この部署は、かつてはライブラリーの一部を構成しましたが、その仕事の性質上、今は平和維持活動を担当する部局の一部だと思います。それから、国連事務局ビルも他の建物と同様に、頻繁に修理・修繕などが必要になることから、そうした建築関係の仕事もあります。職員の健康管理をするメディカル・オフィサーといわれる人たちも必要ですし、フォトグラファー、通訳、翻訳も必要です。ただし、通訳・翻訳家は母国語が公用語でなければならないので、残念ながら、日本人は通訳・翻訳家だけはなれないのですけれどね。

そして、私のように、ライブラリーで働く職員も必要です。だから、たとえば、国内で、公共図書館、大学図書館で働きたいと考えている人がいるとしたら、その延長線上で、国連の図書館で働くという選択肢も視野に入れて、国連で働くということを身近に考えてもらったらよいのではないかと思います。

グローバル化した世の中で、国連で働くことは、決して特別なことではありません。世界で起こることに少しでも興味があるなら、選択肢を少し広げるだけで、国連がすぐそこに見えてくるはずです。

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