月給20万円から"残業代ゼロ"のシンガポールを、日本は真似できない

日本では「年収1千万円以上で残業代ゼロ」と大騒ぎですが、シンガポールでは「月給20万円で残業代ゼロ」が施行されています。基本月給が2,500シンガポールドル(20万円)より多いデスクワークには、サービス残業などではなく、合法的に残業代ゼロ (ホワイトカラーエグゼンプション) の労働契約を結べます。
New York Daily News Archive via Getty Images

日本では「年収1千万円以上で残業代ゼロ」と大騒ぎですが、シンガポールでは「月給20万円で残業代ゼロ」が施行されています。基本月給が2,500シンガポールドル(20万円)より多いデスクワークには、サービス残業などではなく、合法的に残業代ゼロ (ホワイトカラーエグゼンプション) の労働契約を結べます。

この月額S$2,500(20万円)は給与相場上昇などの影響で2014年4月に金額が上がったもので、それ以前はS$2,000でした。S$2,000をアベノミクス以前の円高レートで計算すると、わずか13万円です。S$2,500は、シンガポールで労働ビザを取得している日本人であれば、ほぼ全員が残業代ゼロの対象となる給与額です。

シンガポールで残業代ゼロの根拠は雇用法

基本月給20万円、というしきい値はシンガポールの雇用法 (Employment Act) が根拠です。雇用法記載内容を全て保護されるデスクワークの仕事は、月額S$2,500(20万円)以下なのです。シンガポールでの残業代ゼロは年収にすると240万円からで、これに加えてボーナスや諸手当が出ることも多いですが、日本での年収1千万円と比べると雲泥の差です。

ワークマンと呼ばれる単純労働者(例:トラック運転手・建設現場作業員・厨房助手・機械オペレーター) では基本月給$4,500(36万円)以下が残業代ゼロの対象です。これは、就業時間に成果が正比例するブルーカラーと、必ずしも正比例せず属人性が高いホワイトカラーとの違いです。ブルーカラーがより保護される対象です。

基本月給がS$2,500を超えると、残業代ゼロをオプションとして雇用契約に盛り込めます。残業代を支給する雇用契約も可能ですし、支給しない雇用契約も可能です。雇用法では50%増しとなる残業代支給が義務付けられていますが、基本月給S$2,500を超えると、残業代での雇用法対象外になり、残業代ゼロの労働契約や就業規則 (Company handbook) を結べるようになります。S$2,500を超えていても、シフト勤務者などの職種では残業代が払われる勤務実態と労働市場に則した労働契約になっていることが多いです。

雇用法保護外の労働者の権利保護

シンガポールで雇用法保護外の労働者が、どのように権利を保護されるのでしょう。

労働組合が活躍している?いいえ、違います。シンガポールで労働組合はある企業もありますが、ストライキが法律で許されていないなど、権利の行使に制限があります。

政府の監督が強い?いいえ、違います。政府が監督するのは、雇用法対象のみです。雇用法内の労働争議では監督官庁の労働省(MOM: Ministry of Manpower)が話し合いに入ることがありますが、監督官庁の対象を超えた指導や強制執行権は当然ありません。

基本月給がS$4,500を超えると、雇用法は適応されず、雇用契約と就業規則に基づく義務と権利の関係になります。労働省(MOM)は「雇用法適応対象外の労働者は、雇用主が雇用契約に反したかどうかの判断には、弁護士に相談すること」と明言しています。一定以上の給与所得者は自分の身は自分で守ることが求められているのです。

If an employee is not covered under the Employment Act, he may consider consulting a lawyer to assess if his employer has breached the terms of his employment contract.

MOM: Employment Rights & Conditions: Salary

日本よりゆるやかな労働環境のシンガポール

労働時間

では、日本の一部の人が「残業代ゼロ」環境で将来そうなると言っているような"労働者が搾取される世界"にシンガポールがいるのかというと、日本よりゆるい労働環境です。これはシンガポールで働く日本人は口をそろえて同意します。例えば労働時間では、日本の方がシンガポールより長いです。シンガポール人が夜8時を過ぎると「今日は残業」のような投稿が、私のFacebookで上がってくるぐらい残業はマレです。日本では夜8時迄に帰ることができるのは、総合職正社員では恵まれている労働環境ではないでしょうか。

もちろん、シンガポールでも残業を定常的にする人もいて、層が分かれます。残業が定常的な層はプロフェッショナルサービス(会計士・コンサル等)・一部金融・幹部(候補)等です。つまり、業種と職種で分かれます。日本は総合職正社員というだけで(幹部候補扱いされ)残業、時には残業代が支給されないサービス残業もしますが、シンガポールで幹部候補は部署・ポジションやMBA採用等で明確に分離されています。正社員なら残業する、という考えはこの国ではありません。残業が求められる職種や業種では、一般的な日本人正社員より長時間労働でも、残りは残業の定常化を受け入れません。つまり、稼いでいる人が長時間労働の国なのです。

休暇日数

休暇日数もシンガポールの方が多いです。

オンライン旅行会社Expedia調査では、日本の有給休暇取得は7日(取得率39%)、シンガポールでは14日(取得率93%)です。国の祝日日数が、日本は17日、シンガポールは11日。

合計すると、日本は休日合計が24日、シンガポールは25日と近づきますが、シンガポールには疾病休暇 (Medical Leave) があります。日本では「病気になった時のために有給を貯めておき、結局健康だったことを慰みに有給が失効する」人が多いのですが、シンガポールでは理解されません。医師の診断書 (MC: Medical Certificate) があれば有給になります。雇用法対象者では年に通院で14日、入院で60日つきます。

雇用法対象外では、一般的にこれ以上の条件がつくことが多いです。シンガポールでは仮病による疾病休暇の利用者も珍しくなく、「事前に予約しない休暇」として使う人もいます。例えば、カジノで有名なマリーナベイサンズは、開業初年度の2010年の大晦日に、カジノディーラー1500人のうち250人が疾病休暇を取ったと言われています。シンガポールの管理職は、部下の疾病休暇管理が腕の見せどころです。仮病で疾病休暇をとるぐらいなので、有給の完全消化は当たり前です。

また、シンガポールの休暇の特徴としては有給を使った2週間ぐらいの長期休暇も一般的です。日本では新婚旅行でもないと2週間の休みが認められるのは、なかなか無いのではないでしょうか。

労使のバランスを保つ二大要素

シンガポールで労働環境で歯止めがかかっているのは、以下の二つの背景があります。

  • 雇用主: 解雇自由 (解雇規制なし)
  • 従業員: 国の失業率が低く、転職自由 (転職が容易でマイナス評価にならない)

日本の失業率は計算方法に問題ありと言われながら世界的には低く4.0% (2013年)ですが、シンガポールでは失業率がわずか2.1%です(2014年第一四半期)。

労働者は、この低い失業率と転職がマイナス評価されない環境に支えられ、キャリアアップや良い給与を求め、あるいは現職への不満から転職をします。雇用主も、妊娠出産での解雇は違法ですが、それ以外では解雇理由を告げる必要もなく自由に解雇可能です。

この環境を背景にした労使のパワーバランスで、労働条件が作られます。

長時間残業が必要な "割にあわない" 労働環境を従業員に押し付けると、一般従業員は即座に転職します。いつ解雇されるかも分からない労働契約では、約束されない将来を期待した辛抱は続かないです。そのため、無茶な労働条件を労働者に安易に押し付けられず、残業代支払い不要でも、一般労働者は日本より労働環境がゆるやかなのです。

※注記: シンガポールの中小企業の労働環境は、日本と比べても、然程よくありません。長時間労働のみでなく、オーナー企業では家族行事を手伝わされたりします。結果として、他に仕事がある人は定着せず、他で仕事を見つけられない人ばかりがそういう職場で働くことになります。優秀とされるシンガポール人が働くのは、官公庁・政府系大企業・欧米系多国籍企業です。日系企業は、給料が安く、長時間労働で、日本語など特異企業文化への同調圧力が強いことから、就職で避けられる傾向にあります。

雇用流動化を妨げる終身雇用で、残業代ゼロが影響する労使バランス

転職を前提としたシンガポールの雇用環境は、日本の一部で今でも守られている終身雇用と異なります。

日本の終身雇用は、正社員を事業の核として、景気が良ければ非正規雇用を雇い入れ、協力会社に業務発注し、正社員は猛烈残業をします。不景気になると非正規雇用を解雇し、協力会社への契約は打ち切り、正社員雇用を維持する構造です。シンガポールでは景気の波にあわせ、ダイレクトに従業員を雇用し解雇が可能です。

企業のシンガポール進出というと、節税が注目されていますが、解雇が自由な雇用政策の柔軟さも企業にとり大きな魅力の一つです。

シンガポールでも契約社員はいますし、アウトソースも活用されていますが、日本ほどに複雑な階層構造にはなっていません。

日本で残業代ゼロが「年収1千万円」という会社員の中では恵まれている収入が対象であれば、シンガポールでも稼ぎがよく残業をする層の幹部(候補)に該当するのでバランスはとれているでしょう。しかしこの年収しきい値が下げられるようになると、転職市場が未成熟で、転職回数がネガティブな評価をされる日本では、"酷使されるブラックな労働環境から逃げる"="転職" ができず、一部で指摘されているような悲惨な結果になる可能性が残ります。

そうなると労働者の対抗手段として、日本を出て海外就職を選ぶ人が現在より増える可能性があります。現状では、駐在員とその家族が海外居住者の大半ですが、一部の優秀だったり独立心が強い層や日本企業文化に馴染めなかった現地採用者層に加えて、中堅層の労働者も日本から出て海外就職を試みる人が出てくる可能性です。

なお、「日本人から見ると、シンガポールの労働環境は楽勝」ですが、それはあくまで日本人感覚での相対比較です。シンガポール人は(他の先進国と比べて)労働環境にヒイヒイ言っており、「オーストラリアやカナダやヨーロッパでは」というロジックはよく目にし、実際に同じ英語圏のオーストラリアやカナダへの移民希望者は多くいます。どんな国でも隣の芝生は青いのです。

※付記: 日本の労働時間は本当に短いのか? シンガポールは本当に長時間労働なのか?

ここまでの記述は、"シンガポール在住のシンガポール人"に関するものです。

「年間労働時間はシンガポールが2,300時間、日本は1,700時間で、シンガポールは世界一労働時間が長い国。俺達は可哀想なんだ」という統計を主張され、「いやお前ら、日本人と比べてもそんなに働いてへんやんけ」と思った日本人、いると思います。そのカラクリを書きます。統計が実感と異なった時には、統計値をじっくりみましょう。

シンガポールが「世界一長時間労働の国」という統計があり、「シンガポールは長時間労働の国」説を支える統計は複数ありますが、これは統計の罠です。

Feenstra, Robert C., Robert Inklaar and Marcel P. Timmer (2013): The Next Generation of the Penn World Table

シンガポールを日本より長時間労働国に見せている理由は3つ。

  1. シンガポールで建築現場や製造業工場ラインは長時間労働だが、労働者はアジアの発展途上国からの出稼ぎ移民
  2. シンガポールは女性のフルタイム労働者比率が高い
  3. 給与未支給の労働時間を除いた統計が日本に引用されることが多い

1. シンガポールで建築現場や製造業工場ラインは長時間労働だが、労働者はアジアの発展途上国からの出稼ぎ移民

アジアの発展途上国から単純労働者としてくる外国人労働者は長時間労働です。シンガポールが長時間労働国という統計があるのは、建築業界や製造業のライン労働者や飲食業で働く外国人労働者が原因です。シンガポールでは、シンガポール人がする仕事と、近隣発展途上国からの単純労働者がする仕事は、分かれています。シンガポール人は、割に合わないと思う仕事を避けます。

典型的なのは建設業で、建設現場で働くシンガポール人は滅多におらず、建設現場の事故で死傷者が報じられる際にシンガポール人が入っていることはまれです。シンガポールの労働人口は344万人、うち実際に働いているのは66.7%で229万人。建築業の単純労働者ビザは32万人と14%をも占めます(なお外国人労働者は132万人と労働人口の58%)。シンガポール人比率が比較的高い金融のような業種では、労働時間が低下します。

■業種別週間労働時間

※日本:パートタイム労働者を含む

※シンガポール:フルタイム労働者のみ

MOM: Hours Worked (シンガポール週間労働時間)

MOM: Paid Hours Worked Per Week Of Employees (シンガポール週間労働時間: 産業別)

2. シンガポールは特に女性のフルタイム労働者比率が高い

日本の労働時間が短くなってきているのは、女性のパートタイム労働者の割合が高まってきているためです。フルタイム労働者の労働時間が減っているわけではありません。これは厚労省も言及しています。

年間総実労働時間は減少傾向で推移しているが、これは一般労働者(パートタイム労働者以外の者)についてほぼ横ばいで推移するなかで、平成8年頃からパートタイム労働者比率が高まったこと等がその要因と考えられる。

厚労省: 労働時間等関係資料

3. 給与未支給の労働時間を除いた統計が日本に引用されることが多い

労働時間の国際比較でよく見るのがOECDデータ。各国データを一元的に引用できて便利だからでしょう。これをもとに「年間労働時間が日本は1,735時間だが、アメリカは1,788時間。日本人はついにアメリカ人より働かなくなった!」という人がいますが間違いです。OECDの日本データの出所となっている厚労省の毎勤原表は、サービス残業など給与外労働時間を含みません。給与未支給の労働時間も含む総務省「労働力調査」を使うと「日本:1,963時間 > アメリカ:1,788時間」で日本の圧勝(完敗?!)です。

※シンガポールによくある質問「シンガポールって国際社会に寄生するフリーライダーなんですよね?シンガポールは虚業の国なんですよね?」については左記リンクを参照下さい。

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