本田という人がいた、ぐらいのことでいい ─ 本田宗一郎

本田は誰もが認めるモノづくりの天才であり、誰もがその死を悼む存在だった。

「ホンダとともに生きてきた25年は、私にとって最も充実し、生きがいを肌で感じた毎日だった」

1973年、本田宗一郎の社長退任時の言葉である。その年の正月、長年に亘る盟友・藤沢武夫が退職の意向を伝えると、2人揃っての退陣を決めている。その後も10年間は取締役最高顧問に留まるが、余計な口をはさむことはしていない。今に語り継がれる見事な引き際だった。 生前、博物館や銅像を建てるといった話もしばしば持ち上がったが、こう言って断っている。

「本田という人がいた、ぐらいのことでいい。要は、現在だけを大事にすればいい。現在は過去の蓄積なんだから」

社長退任後は、「『人生の着陸』だけは立派にやりたい」という言葉通りの生き方をした。社長を退任した本田は約2年の歳月をかけて日本国内の工場や出張所、海外の駐在所などすべてを回って社員の日頃の苦労をねぎらっている。こうした社員一人ひとりの努力があったからこそホンダが世界的企業となったことを、よく理解していた本田ならではの行動だろう。

「地味にやってる人たちがあればこそ、何とかなる」。本田はその想いを言葉だけではなく、行動でも示した経営者である。さらに本田は社会貢献や海外の文化交流などにも精力的に取り組み、日本人初となる、アメリカの自動車殿堂入りも果たした。亡くなったのは1991年8月5日である。こう言い残した。

「私は交通業者だ。死んだからといって、大勢集めて、人さまの交通の邪魔をするな」

社葬に代わる会は本社や各製作所で開催され、延べ6万2000人が訪れた。F1の伝説的ドライバー、アイルトン・セナは同日、喪章をつけてレースに出場、見事に優勝するが、泣きじゃくって本田の死を悼んでいる。

本田は誰もが認めるモノづくりの天才であり、誰もがその死を悼む存在だった。

偉大なる創業者の中には素晴らしい成果を上げながらも晩節を汚す人もいれば、本田のように見事な「人生の着陸」を成し遂げる人もいる。本田は世界企業ホンダの基礎を築いただけでなく、見事な引き際によって多くの人の記憶に残る経営者となった。

執筆:桑原 晃弥

本記事は書籍「1分間本田宗一郎」(SBクリエイティブ刊)を再構成したものです。

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