福島とアベノミクス、そしてゴーストタウンに希望の種を蒔く若者

福島にはまだ帰れない人がいる。13万人が避難を余儀なくされ、仮設住宅や政府が借り上げた賃貸住宅に住んでいる。

早朝の列車に乗って福島駅に到着した。福島駅から車で相馬に向かった。

行く道には、絶えることなく工事現場が現れた。すれ違う車の半分以上が工事用の大型トラックだった。運転していたNPO「Bridge for Fukushima」のスタッフが言った。「政府が除染しているんです。それで工事だらけなんです。地表の土をさらって別の場所に移して、原発から飛んできた放射性物質を除去するんです」。同行していた日本人の専門家が付け加えた。「これがまさにアベノミクスですよ」

放射性物質に汚染された土を除去し、津波で壊れた建物を撤去し、その残骸を片付けるのは大規模な工事だ。さらに海岸に防潮堤も建設する。福島は建設工事の天国だ。工事のトラックも建設労働者も足りないという。

常に放射能の数値を測定しながら移動した。

福島にはまだ帰れない人がいる。13万人が避難を余儀なくされ、仮設住宅や政府が借り上げた賃貸住宅に住んでいる。東京電力は、1人当たり月10万円を支給する。政府は5万5千人に対する避難命令を解除する予定だが、避難命令解除後も1年間、住宅費の支援は継続予定だ。

最も大きな被害を被った福島の漁業関係者に会うため、相馬の海辺に行った。

相馬の海で長く暮らしてきた高橋永真さんは、運営していた水産加工工場を津波で流された。その工場は自身の所有ではなく賃貸だったため、賠償の対象にならなかった。彼は、津波で死亡した同僚の工場を借りて水産加工業を再開した。

相馬の海辺の多くの施設は再建されたが、仕事は戻って来なかった。消費者は福島産の水産物を買わなくなった。一時は500隻の漁船が出入りした港には、今は125隻の船がさびついて停泊している。そのうち25隻が、1週間に1回ほど出港して魚を捕る。

「週1回」は賠償金の支給基準だ。東京電力が震災前の売り上げを基準に賠償する。漁業の正常化に努力していると立証するための基準が週1回以上出航することだ。したがって、ほとんどの漁船が現在、週1回だけ出港している。政府は漁業の復興を叫び、埠頭を復旧した。しかし、漁民がここを使うのは週1回だけだ。

多くの船は、さびついたまま停泊していた。

ここで捕れた魚は100%、放射線量を検査する。ここから市場に出る水産物は安全とみなすことができる。しかし、売れない。福島の水産業は、原発事故前の100分の1に縮小した。

観光客もボランティアも減っている。事故後2~3年は福島への関心が高かったので生計を立てることが可能だった。その関心はもう途切れた。自分の力で立ち上がらなければならないが、容易ではない。

多くの漁師たちが水産業の正常化以降をむしろ心配する。施設が復旧して船が出港し、魚を捕っても売れないからだ。しかし、東電の支援金は打ち切られる。

高橋さんは水産加工工場を運営しながら、食堂も運営する。食堂は地方自治体が提供したコンテナビルにある。同じ建物に福島の再建を支援するNPOも入居している。

しかし、高橋さんの水産加工工場は原料を輸入している。相馬で捕れたものを使わない。福島産の材料を使用した加工品は売れないのではないかと憂慮するからだ。

相馬から30分ほど北に行くと宮城県に入る。宮城県で捕れた魚は100%検査を受けているわけではない。実は福島の漁民と同じ海で魚を捕っているのに不公平だと皆が思っている。しかし今は口に出すことはない。賠償金を受け取っている間は静かにしている。

高橋さんは息子に工場を継いでほしかった。しかし、津波と原発事故があってから、この地を離れて暮らす息子に帰って来いと言えない。高橋さんの娘も故郷を離れた。海を見るのが怖いから内陸に住むと言い残して。

私たちは車で南相馬に向かった。南相馬の海岸のあちこちで崩れた防潮堤の跡が見られた。

崩れた防潮堤の跡。

政府はここに巨大な防潮堤を建てようとしている。一つの防潮堤はサッカー場ほどの大きさだ。海岸線に沿って建てられる高さ7メートルの防潮堤は、無駄な巨大建設工事であり、無用の長物になるだろうと専門家らは言う。

しかし、町を津波以前の状態に戻すという政府の計画通りなら、安全のために必ず必要な設備だ。そして当面は税金が建設労働者を通じて住民のポケットに入る。

南相馬で住民全体が避難を余儀なくされた小高地区を訪れた。

訪問した小高地区はまさにゴーストタウンだった。街は立派だが人はいなかった。地震で半壊した建物もあったが、無事だった建物のどこにも人が住んでいなかった。

小高駅前の光景。人がいない。

もともと南相馬の中でも、小高はとても活気ある街だった。人が押し寄せ、小高駅から観光客も事業関係者もたくさん来る街だった。朝は自転車に乗った高校生や会社員が駅に自転車を止め、列車に乗って登校・出勤した。

しかし、小高駅にはもう列車が来ない。2011年3月11日朝、高校生らが止めた自転車がそのまま止まっている。

3年7カ月、止めっぱなしの小高駅前の自転車。

小高には2013年夏以降、日中の居住が許可されたが、夜をここで過ごすのはまだ許可されていない。病院と学校は閉まっている。警察署と消防署は再開したが、ほとんどの商店やオフィスは戻っていない。上下水道など基盤施設も完全に復旧していない。

和田知行さんは小高駅前にコワーキングスペースを開いた。小さな事務室一つに10人余りの起業家が働いている。東京で大学を卒業し、システムエンジニアとして働いていた和田さんは、震災3年前の2008年に故郷の小高に帰ってきた。

そのうち地震が街を襲った。建物のあちこちが壊れたが、何とかしのいだ。しかし原発事故で、見えない危険が街を覆った。避難命令を受け、皆ここを去った。

除染が終わり、街は部分的に再開した。しかし、まだ住民はほとんど戻っていない。企業は戻って来られるが、誰もゴーストタウンで事業をしたがらない。このような中、彼はコワーキングスペースを開いた。最初に帰ってきた事業家になった。

彼は今、収入の多くを補償金に頼っている。汚染地域の外に住み、小高に通勤している。ソフトウェア関係の仕事をしながら、小高で新たに始める事業を構想している。レストランかもしれないし、流通業かもしれない。「交通の基盤がないから運送業はどうか」と勧められることもある。

和田さんには、皆が出て行ったゴーストタウンは、新たに種をまいて育てることができる主人なき畑のように見える。政府の計画通りに進めば、2年後の2016年から住民が戻ってくる。その時まで彼は基盤を整えて待つつもりだ。

専門家らは否定的だ。巨大な復興が終了するには十数年かかるかもしれない。原子力発電所の危険も依然として去っていない。住民が帰って来ても、震災前の4分の1ほどにしかならないとの予想もある。それも高齢者だけ帰ってくる可能性が高い。

しかし和田さんは、小高が再び昔のように息を吹き返す日を待っている。朝鮮戦争後に廃墟と化した地で事業を始めたサムスンの李秉喆(イ・ビョンチョル)氏、現代(ヒュンダイ)の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏ら起業家は、そんな気持ちだったのではないだろうか。大きな成功を収める企業家とは、まるで不毛の地にしか見えない砂漠ですべてをかけて事業を始める人ではないだろうか。和田さんの考えは印象的だった。

それでも心穏やかではなかった。巨費を投じて巨大な建設工事を行ってすべてを過去に戻すことが最良の復興なのか。他の方法はないだろうか。福島の秋はすがすがしい。帰り道は急速に暗くなった。

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