今年の1月15日に放送が開始された『明日、ママがいない』が話題を呼んでいる。親のいない子供たちが暮らす児童養護施設であるグループホーム「コガモの家」を舞台に、親と離ればなれになった4人の少女たちが生きていく様子を中心に描いた作品だが、第1話の放送内容をめぐって、諸般の事情で親が新生児を匿名で養子に出す為の赤ちゃんポストと呼ばれる施設を設けたことで有名な熊本市にある慈恵病院(同病院では「こうのとりのゆりかご」と呼ぶ)が、記者会見を行った。
慈恵病院側は、「全国児童養護施設協議会が放送以前から内容を問題視し、12月に内容変更の申し入れをしていたが、申し入れを反映することなく第1話が放映された」ことに対して、同番組は「視聴者に養護施設の子供や職員への誤解を招き、偏見を与えかねず、ひいては、預けられた子どもたちを傷つけ、精神的な虐待をすることになるので、人権侵害にあたる」として、日本テレビに口頭と文書で放送中止を要請するとした(慈恵病院は、記者会見後、真摯で詳細なコメント文書をホームページで公表している)。それに対して、日本テレビの大久保好男社長が、第2話の終了後の1月27日に記者会見し、「最後まで見ていただければ、私たちの意図が理解していただける」と発言し、放送継続の意向を明らかにしたことで大きな話題を呼ぶこととなったことは、読者の記憶に新しいと思う。
本連載のテーマからして、この番組の是非をここで問うことはしない。この番組の是非を問いたい読者は、批判の論陣を張る水島宏明法政大学教授、慈恵病院、児童養護施設、全国児童養護施設協議会、当事者の日本テレビ、そしてネット上のその他の多くの意見を確認したうえで、各自で判断頂きたい。
日本テレビには児童養護施設団体の関係者から多くの抗議や申し入れが寄せられ、マスコミがそれを大きく取り上げ、加えて、スポンサーがCM放送を見合わせるなかでも、日本テレビは社長が前面に出て、日本的に丸く収めようと即座に放送を中止することなく、「最後までご覧いただきたい」と明言したことで、日本としては珍しく、紙上でもネット上でも、このハフィントンポストでも、色々な意見が盛んに展開されている。
ここで考えて頂きたいのは、子会社での冷凍食品への農薬混入事件という契約社員個人の犯罪(現在、前橋地検は処分保留で釈放し、群馬県警は再逮捕の方針と複雑な状況になっている)に対して、何故かマルハニチロホールディングスの社長が辞任をしたり、22件程度と言われる、ごく少数のクレームで好調であったフォアグラ弁当の販売をファミリーマートが中止するといった、とりあえず丸く収めておいた方があとあと問題にならないという日本的といえる「事なかれ」主義的な対応を、もし日本テレビがとっていたとすれば、どうなっていたであろうかということである。
何であれ、「とりあえず謝る」と同様に、丸く収めるために放送を中止することで問題を見えなくして、日本社会が抱える児童に関わる社会的擁護の課題が大きく解決に向かうのであろうか。社会でオープンに問題をギロンすることなく、誰も傷つけてはいけないと言う理想論(ノーリスクで問題を解決できるとする理想論で社会の問題はおそらく解決しない)のもとに、放送中止に追い込むことによって、この社会的課題が解決に向かうとは、筆者には俄かに信じがたい。そもそも、この情報化の時代においてテレビの力を過大に評価していることも時代錯誤であろうし、本来、複数のメディアから自発的に情報を集めて判断することを前提にしていないというのも、視聴者をテレビのみに影響される単細胞とバカにしているとも言えるのでないだろうか。
もし放送が第2回から中止されていたら、視聴者は、児童養護施設を筆頭とする社会的養護の5施設(児童養護施設、母子生活支援施設、乳児院、児童自立支援施設、情緒障害児短期治療施設)に4万人を超える児童が生活しているという現実や里親(養育家庭)制度を通して親子とは何かについて考え、その中の何人かが、さらに親権という大きな問題と養子縁組制度と特別養子縁組制度の違いについてまで、思いめぐらすこともなかったのではないだろうか。
事実、「明日、ママがいない」の平均視聴率(関東地区)は、ビデオリサーチの調べで、第1話14.0%、第2話13.5%、第3話15.0%、第4話13.1%と概ね安定的に高い視聴率で推移しており、児童の社会的擁護の問題に対する関心を広めていると思われる。
今回の件にとどまらず、日本において良く耳にするのは、「誰も傷つけてはいけない」という論拠である。一見正しそうであるが、読者は、「誰も傷つかない社会」とはどのようなものか考えたことがおありだろうか。誰もが傷つかない、不快に思わないという社会とは、傷つくこと、受け手が不快に思うことの閾値を下げていくことである。言い換えれば、判断が客観から個人の主観へと際限なく移行していくことである。いじめを例に考えると、「誰もいじめを感じない社会」を作ろうとすると、いじめは、暴力から言葉、そして態度(無視)へとその定義が拡大することで、好まぬ人との接触を避けることさえもがいじめとなり、ひいては、いじめの被害者と加害者の切り分けが難しくなり、いじめを非難する人もいじめをしていることになるのである。そして、いじめはいつしか日常の中に没することになる。読者諸兄は、最近、いじめの話題がすくなくなったとは感じないだろうか。セクハラやパワハラも同様であろう。断っておくが、筆者はいじめの問題を決して軽んじているわけではなく、現在の状況が、論理的に考えて、擁護者の意図とは必ずしも一致しない結果を招く可能性があるのではないかと述べているのである。
今回の「明日、ママがいない」のケースも「誰も傷つけてはいけない」という閾値の下げを行えば、最終的に問題そのものが意味を失うのではないだろうか。なぜなら、「誰も傷つかない」社会とは、最終的には、1人1人が何も失わない、傷つかない、つまり、自分の思うようになる村上春樹のいう「世界の終わり」のような穏やかな終わりのない二次元的で平板な自分の世界の殻に閉じこもることを意味しているから。理想論者はこれを「優しい社会」というユートピアと呼ぶのかもしれないが、これは筆者の望むところではない。社会の問題を論じるにあたって、問題の閾値を下げる(個人の主観的判断に依拠する)ことの意味あいを理解しない議論は、有効性を欠くと言わざるをえないのではないか。
一般的には、ここまで考えることは少なく、「誰も傷つけてはいけない」という正論(建前論)を前にすると、角をたてないで丸く収めるというのが日本の生活の知恵であることは否定しない。しかし、それでは、問題は見えなくしても、問題を発展的に解消するためのギロンは起こらないので、課題が定義され、解決されないので、問題は根本的には解消しない。つまり、建前上は、問題はないが、本音としては、問題は存在し続けると言う日本的な現状は変らない。
「優しさ」という美名のもとに、つきつめてギロンをせずに、問題を日常という海に沈めることで、うやむやにすることを、日本の「和」といって愛でるか、日本のガラパゴス化といって危惧するかで、その人の今後の生き残るフィールドが自ずと決まって来るといえるのではないか。
このような日本社会で、ギロンを起こすという観点から、全9話の半数の第5回までを放送した日本テレビの判断は特筆に値すると言える。第2回で打ち切ることでギロンの芽を摘んでしまうのと、たとえ修正を加えた(批判をもとに、第2話以降の内容が変更されたであろうことを否定はしない)としても批判を受けつつ継続することによってギロンを起こすことのどちらが、今、この日本社会に求められているかの判断は読者諸兄にお任せしたい。
いずれにしても、筆者は日本的に丸く収めず、あえて火中の栗を拾う行為ともいえる日本テレビの姿勢に、日本社会におけるオープンなギロンの萌芽を感じている。最新の第5話の視聴率(関東地区)は11.6%と過去最低を記録したそうである。これを、同時間帯にテレビ東京とNHKBS-1が、銀メダルを獲得した渡部暁斗が出場したノルディックスキー複合個人ノーマルヒルの中継をしていたためとみるか、番組を継続する日本テレビに対する批判への賛同者が増えたためとみるか、はたまた、ネットでも言われるように、批判を受けての内容の修正によって、毒気を抜かれ、良い子化した番組に視聴者が面白さを感じなくなったためとみるか、ギロンは別れそうであるが、日本社会におけるオープンなギロンの芽が育つか、枯れるか、今後の展開を興味深く見守ってみたい。
次回からは、少子超高齢化が急速に進行する日本社会が抱える課題についての論考を展開したい。