どの健康法が一番有効で、幸せになれるのか

あまたある健康法のうち、どれを選べば自分は健康に、そして幸せになれるのか。しかし、これに関しては、実は、私の中ではすでに明確な基準が樹立されているのだ。

空前の健康(法)ブームである。テレビの中ではタレント医師が自らの名を冠したメソッドを朗々と謳いあげ、書店に行けば古今東西ありとあらゆる健康法を説いた本が山と積まれ、ネット上では日々「あれが効いた」「これで元気になった」などの口コミがいまこの瞬間にも増殖し続けている。

しかし、それらひとつひとつの健康法と同じ数だけ、まったく真逆のことを叫ぶ意見もあったりするので混乱してしまう。「美容と健康のために肉食を控えましょう」⇔「肉を食べないと髪も肌もボロボロのカサカサになりますが良いのですか?」、「温めれば温めるほど身体は健康になります」⇔「温めれば温めるほど身体は怠けますけど......?」、「西洋医学を信じるな」⇔「西洋医学を信じるなという医師を信じるな」、などなど、枚挙にいとまがない。あまりにも情報が錯綜しすぎていて、もう、まったく、なにを信じていいのやら、いまにも目を回して後ろ向きにぶっ倒れてしまいそうだ。

ところで、私自身、数年前より、月経前の気分の乱高下、偏頭痛、不眠などに悩まされ、そこからなんとか脱却しようとさまざまな健康法に手を出してきた過去がある。20分以上の半身浴を毎日行う、靴下を重ね履きする、足裏マッサージを行う、朝に果物を食べる、しょうが入り紅茶を飲む、毎日2リットルの水を飲む、白湯を飲む、プチ断食をする、アロマオイルを焚く、乾いたブラシで全身をこする、ツボのあたりにカイロを貼る、瞑想をする......などなど。そしてそれらのうちのいくつかは、実際に有効であった。現在も継続して実践中のものもある。しかし、私が健康を手に入れた方法も、さまざまな書籍やネット上の意見によって批判されているのを、割と良く見かけるのである。「あんなこと続けていたら、逆に免疫力が落ちてしまいます、たとえば......」なんてことを言って、実際に数値的な根拠を取り出してきてまで否定しているようなものまである。が、事実、私はその方法で当時抱えていた不調をほとんどすべて解消したのである。

あまたある健康法のうち、どれを選べば自分は健康に、そして幸せになれるのか----― 現代の「健康法、あれがいいこれがいい論争」の狭間におかれて、悩みの海に沈みこんでしまう人も多数いることだろう。しかし、これに関しては、実は、私の中ではすでに明確な基準が樹立されているのだ。

結局、自分の好きな健康法が、自分にとって一番有効なのだ。

って、まあ、単純すぎてアレですけど......。

しかし、これはどうやら本当のことみたいだ。自分の経験を振り返っても、流行ってるから、とか、あの芸能人がやっているから、とかではなく、自分の気持ちがなんとなく向かったから、という理由で手を出した健康法がもっとも有効であった。結局、すべては「好み」の問題なのだ。

自分の「好み」の健康法によって健康を得る、というのを、自分の「好み」の相手との恋愛によって幸せを得る、というのに置き換えて考えてみると、わかりやすいかもしれない。

顔が好きとか、声にぞくぞくするとか、お洒落なところがステキとか、そういう単純な「好み」もあるし、音楽の趣味が合うところが好きとか、話を楽しそうに聞いてくれるところがいいとかの、自分との相性を基準とした、複合的な「好み」もある。一口に「好み」と言ってもいろいろだ。しかし、どんな「好み」であれ、それが、真実、その人の心の中から出てきたものであれば、それが満たされたときに、人は幸せを感じるものである。

結局、どんな健康法でも、それが自分の「好み」を基準として選ばれたものであれば、一定の成果をあげられるものなのだ。そもそも「好み」の相手でないと付き合えないということもあるが、それ以上に、自分で、自分の好みのままに、なにかを選んだという事実は、自分自身に大きな納得をもたらすものだからだ。納得のないままなにかを成すことは、心にも身体にも相当な負担を強いる。仏教でも身口意の三業の一致が説かれている。行動、言葉、思い、その3つが一致していれば、人は心身ともに健やかでいられるのだ。

私には、「この健康法はいい」「あれはだめ」との論争を口角泡飛ばして繰り広げる人たちが、AKBのうちのだれが一番魅力的かをムキになって言い争うニキビ面の中学生男子と同じに見えるのだ。なにが一番かなどという論争に意味などない。だって、結局、すべては個人の「好み」に拠って立つものなのだから。そして、絶対的な「好み」など存在しないのだから。まゆゆもこじはるもさしこも、みなそれぞれに、それぞれのファン達に生きる活力を与えている。それじゃだめなのだろうか。「それぞれ」じゃいけないのだろうか。どうしても一番を決めなきゃ安心できないのだろうか。(一昔前、「一番じゃなきゃダメなんでしょうか?」と絶叫して話題になった女性議員がいましたね~。)絶対的な価値など、この世には存在しないというのに。

そう、究極的なことを言ってしまえば、この世には、絶対的な「良い」も「悪い」もないし、絶対的な「正しい」も「正しくない」もない。そこにはただ、「好き」か「そうでないか」があるだけだ。そう、個人の「好み」があるだけなのだ。そしてその「好み」だって常に変化していく。よどみにうかぶうたかたのごとく。

それでも、その時々の「好み」が、現象界に生きる我々に彩りをもたらしてくれることは事実だ。その彩りを幸せと呼ぶのならそうなのだろうし、そこに執着したくなる気持ちはものすごくよく分かる。だけど、執着は硬直を生むこともまた事実なのだ。心身ともにカチカチになってしまうと、人は健康状態を悪くするし、人間関係だってうまくいかなくなる。

心静かに、その時々の自分の「好み」と向き合い、ちゃんと納得した上で、与えられた命を軽やかに生きていく。それができれば、人はいつだって健やかでいられるのだと思う。まあ、そう簡単な話じゃないですけどね。でも、自分の「好み」ぐらい、どんなときでもしっかり自覚していたいものだと思うし、その態度を持った人だけが、結局は、健康、ひいては幸せってものを手に入れられるのではないかと、私は思う。