人はなぜ「マウンティング」をしたがるのか

「マウンティング女子」なる言葉が大流行しているようだ。マウンティングとは、動物が相手の背に乗って個体間の優位性を示す行為のこと、であるらしい。サルなんかが実際にこれをやっているのをテレビなどで観たことがある人も多いかもしれない。これが人間の女性の間でも行われているというのだ。

「マウンティング女子」なる言葉が大流行しているようだ。マウンティングとは、動物が相手の背に乗って個体間の優位性を示す行為のこと、であるらしい。サルなんかが実際にこれをやっているのをテレビなどで観たことがある人も多いかもしれない。これが人間の女性の間でも行われているというのだ。と言っても実際に相手の背に馬乗りになる女子が多発しているわけではない。(やっている人も中にはいるかもしれないが……。)日常のコミュニケーションの中で「私の方があんたより上なのよ!」といった態度をさりげなく取り入れ、表面上は笑顔を保ったままで相手を貶めてくる女性、それを「マウンティング女子」と呼ぶらしいのだ。このセンセーショナルな言葉の発案者は、『臨死!江古田ちゃん』などで知られる漫画家・エッセイストの瀧波ユカリ氏。うまいこと言うなあ、と手を叩いて爆笑してしまった後で、背筋にひやりとしたものを感じた人間は私だけではないだろう。

(「マウンティング女子」の生態と具体的な行動例はこちらの記事に詳しいです。http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20140417/1056737/?ST=life&P=1

この「マウンティング」、なにも女性の間だけで起きているわけではない。むしろ、まだまだ競争意識が根強い男性社会においての方が、こういった行為は多く観察されることだろう。ただ、男性のマウンティングは、あまりに露骨すぎて面白みに欠けるから特別に騒がれることがない、それだけの違いである。

友人間、同僚間、家族間……。男性的なわかりやすいものであれ、女性的なわかりにくいものであれ、日常のありとあらゆるところに「マウンティング」ははびこっている。SNS文化の発展にともない、「マウンティング疲れ」なる現象も深刻化しているのだという。

人はなぜ「マウンティング」をしたがるのか。どうして相手より自分の方が上であることをアピールしなくては気が済まないのか――

みな、どうしようもない恐怖感と戦っているのだろうな、と思う。自分はここに生きていても良いのだろうか―― 自分という存在に絶対的な自信を持てないことがもたらす恐怖。そこからどうにか逃れたくて、人は「マウンティング」に走るのだろう。「あの人より、この点で自分は勝ってる」など、目に見える尺度をもって自らの相対的な立ち位置を確認することで、自分の価値を客観的に図って、安心したいのだろう。でもその安心感は言うまでもなく見せかけだ。「価値」というもの自体、人間の脳の中にしかない、実体のないものなのだから。

とあるお寺のお坊さんから、こんな話を聞いたことがある。

「人間はなにも持たずに生まれて、そしてなにも持たずに死んでいきます。大海原の一滴として生まれ、大波小波としてそれぞれの人生を過ごし、死んで再び海そのものとしてとけていくのです。そういう意味で、ひとりひとりの人間に差はありません。『悟り』とは『差』『取り』です。差というものの一切が消えた、大きな海そのものとなってゆったりとたゆたう安らぎ。そこを生きていくことも、また、可能なんですよ。みんな本当は、たったひとつの存在なんだと想像して、それを実感することで、生きながらにして『差取って』、海として生きていくことはできるんです。すべてはひとつ。みんながそういうことを知ったならば、この世から争い事は消えてなくなるのかもしれませんね」。

私たちの本体は、「波」という個別の現象ではなく、「海」というたったひとつのもの。波は、海という運動の一瞬のあらわれに過ぎない。そう考えれば、波としての自分が、波としての相手と、「俺の方が!」「私の方が!」と、その時々の高さ、大きさ、勢いなどを躍起になって競い合ったところで、なんの意味もなさないことが分かる。波という現象に実体はない。どんなに高く、大きな波も、どんなに勢いのある波も、いつかは砕け散って大海の中へととけていくのだから。その瞬間、あらゆる「差」が「取れて」、すべてはひとつだったということに気付くのだろう。

海そのものとしての自分を自覚することで、比べることの無意味さに気付き、心からの安らぎを生きていくことが、この終わりのないマウンティングゲームをクリアする、ただひとつの方法なのだと思う。

「マウンティング」という、個体間の優位性を確認する行為に、心の底からの面白みを感じるのならば、これからもじゃんじゃんやればいい。「波」として生きる自由の中には、幻想に浸り続けることを選択する権利も含まれている。でも、「これってどこか違うよな」「疲れるだけだよな」と思うのならば、それぞれの差異に目を向けて、そこに自分の価値を見出そうとするのではなく、「もしかして、私たちひとりひとりに差なんて全然ないんじゃない? 上も下もないんじゃない? 全部幻想なんじゃない?」ということに、ほんのちょっとだけでも思いをいたしてみることをおすすめしたい。そうすれば、マウンティングゲームに興じていたときには決して見えてこなかった、自分という存在に対する絶対的な安心感が見つかるかもしれない。そして、自分という存在を、かつてないほどに頼もしいものとして感じられるかもしれない。そんな「差取った」感覚を持って生きていく方が、ずっと楽だし、ずっとたのしいだろうと、私なんかは思うのだが、いかがだろうか。

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