5月の風にまかせて

欅の新芽が眩しく、梢を揺らす乾いた5月の風が、ボクの背中を押し、欅並木を抜け、前へ、前へと進みます。

欅の新芽が眩しく、梢を揺らす乾いた5月の風が、

ボクの背中を押し、欅並木を抜け、前へ、前へと進みます。

こういう風が吹くとき。

それは、一年でも、そうそうあるわけではありませんよ。

だからね。

身体一杯に帆を張って、風を受け、前に進んでください。

「Hoist your sail when the wind is fair.」

順風のときには帆を張れ。

なーんて言っても、実生活では、そんな順風満帆なんてことはありません。

でも、せめて5月の風が吹くときは、

気持ちに帆を張って、風まかせに歩いてみると、意外なことが起こるものです。

先だって、そんなことが起こりました。

いまの季節は、カフェによくよく行きます。

カフェにおもむろに入り、席につき、調べものをしたり、

ブログや冊子のための文章を書いたり、音楽を聴いたり。

最近よく聴くのはテレマンのアリアです。

なぜか自宅や自分の会社の席では、あまり文章が書けません。

文章を書くのには、なにか大切なものが必要です。

そういう大切ものは、自分の息のかかったところは消えてしまうようです。

自分でやってるカフェも、ボクにとって文章を書くのには

あまり適さない場所の一つです。けして悪い店ではないんだけど。

自分の店では、自分がお客になりきるというのは無理だからでしょうか。

先日もボクの前に2人の女性客がいました。

彼女たちはパンを注文し、うちの店員の子が、

焼きたてのパンを小走りに持ってきて、「お待たせしました」と届けました。

熱々のパンの上には大きなバターが乗り、

そのバターはこんがりと焼けたパンの予熱で美味しそうに溶けはじめている。

(あぁ、いい感じにバターが溶けているぞ。あのバターを

熱々のパンに染み込ませて食べると旨いんだよな)

なんてボクは見ていたんですが、彼女たちは一向に食べる気配はありません。

あれれ。

2人とも、恨めしそうな顔をして、こんなことを言っています。

「わたしってさ、ほら、結局のところ、男運が無いってことなんだよね。

なんだかさ、つまんない男ばっかりでなんだかなだよ」

「ほんと、なんだかなだよね」

「あーあ、身も心も溶ける様な、忘れられない恋愛がしたいね」

「ほんとほんと、トロトロに溶けてみたい、キャハハハハ」

ストローを噛じりながら、相槌を打ちあい、歴代の男たちの退屈自慢をしています。

バターは会話のあいだにトロトロに溶けて、台無しになってしまいました。

ボクはなんとも言えない気分になりました。

そんなことが色々とあるものだから、なかなか文章を書く気分にはなれないのです。

こういう5月の風が吹く日は、どこか見知らぬ地の、見知らぬカフェに行くのが好きです。

バイクにまたがり、気の向くままたどり着いたそのカフェが、自分の気持ちと

うまくフィットした時、そこで過ごす時間は、かけがえのないほど有意義で楽しいものです。

風に揺れる欅並木のささやき、山鳩の鳴き声。

休日のオフィス街は、まるで森のなかに居るような静けさです。

休日に落ち着いたカフェを探すなら、オフィス街がおすすめです。

高層ビルのロビーにある大きなコーヒーショップに、その日ボクは入りました。

店は独り占めできるほどゆったりとしていて、

静かすぎず、騒がしくもなく、実に気分にピッタリの時間が流れています。

時折やって来るお客さんも、休日出勤のワイシャツ姿の男性やスーツ姿の女性で、

カジュアルだけど、くだけ過ぎていない感じです。

ふと目をやると、レジ近くの大きなソファに、黒いパンツ、黒いジャケットを着た、

綺麗な女性がコーヒーを飲んでいます。

(綺麗な女性だなぁ)と、ボクはじっと彼女のことを見ていました。

すると、その女性もチラッとボクを見て目を合わせました。

そしてそのまま、こっちをジーっと見て、ボクの方に歩いてきました。

彼女はボクの前に立つと、

「もしかして、三軒茶屋の」

と、声をかけてきた。

「あたし、あなたのお店に通っているものです。以前からずっと。あたしのこと、分かりますか?」

すぐさま「もちろん、知ってますよー」と言いました。

ぱっと見では、実のところわかりませんでした。なぜかって、綺麗すぎたからです。

顔をじっと見ると、すぐに分かる常連のお客さんでした。

ただ、うちの店で見る彼女の雰囲気と、

ここで見た雰囲気はずいぶんと違っている。

「今日はなにか?この辺りでお仕事なんですか?」という彼女に、

「えぇ、あぁ、そんなようなものかな。あっ、ちょっと、その、書きものをね」と答えるボク。

「そう。こんなところで」

「あっ、まぁ」

「・・・」

「・・・」

「近くなの?仕事」

「はい。ほらそこの」

有名な老舗のホテルの名前を言いました。

「あぁ。そっか」

そのあとはそれきりで、彼女は会釈して席に座り、

あとはボクと会話したことなど気に止める様子もなく、

A4の資料を片手で持って目を落とすと、

しばらくして、ふっと店を出て行ってしまいました。

オフィス街に残されたボクは、なんだか、不意のできごとに心が落ち着かず、

なんとなくそこを立ち去ることもできないまま、

コーヒーを一杯お代わりをし、店を出ました。

それだけのことですけど、なんだか、不思議な感じがした。

海外旅行に出かけて、有名なヌードビーチで、

うちのお客さんに遭遇したら、

ボクはその時、なんと言えばいいのだろうか。

そんな余計なことを考えたりしながら、

オフィス街に続く大きな欅並木を歩いて帰ったのでした。

夜風もちゃんと、5月の風でした。

みなさんに、良い風が吹くといいですね。