「バッハじゃなかろか、この男」

東京の街に身体を合わせてゆく作業はいつも疲れます。

千歳から羽田に降り立ち、

ボーディング・ブリッジを渡るとき。

ボクはため息をつく。

グレーで、モノレールな空気が、

東京の、東京湾の、コンビナートな湿気を含み、

そいつが。

身体の肺の、ずっと奥に、

重く、どよんと異物として入ってくるから。

東京の街に身体を合わせてゆく作業はいつも疲れます。

ヒトはその第一声である「産声」を発するとき、

生まれた土地の空気を、大きく肺に吸い込むんだそうです。

オギャーと吐きだして、スーッと吸う。

そのスーッが、大人の肺に留まり続け、

吸った空気の粒粒はどういうわけか肺の持ち主に、

生まれた土地への愛着を感じさせるらしい。

それは置いといて。

ボクは札幌で生まれたからか、湿っぽいのが苦手。

乾いたおしゃべりは、何時間でも疲れない。

湿ったおしゃべりはすぐ飽きてしまう。

似たようなことに、乾いた音楽ならずっと飽きない。

お店でかける音楽はバロックです。

バロックといえば、音楽の父、バッハとなります。

大バッハと呼ばれるJ・S・バッハは、

バロックでは圧倒的な知名度です。

その知名度のおかげで、買ったCDには、

たいていJ・S・バッハ作曲が混じってしまう。

ボクのCDを調べてみたらバロックは2096曲。

その中で、バッハ作曲は782曲もあるのです。

実にバッハ率、37.3%。

つまり、お店で流れるバロックの

3曲に1曲はバッハとなっちゃう。

マメヒコで珈琲を飲みながら、バロックっぽい曲がかかっていたら、

『 バッハじゃなかろか、この男 』

と思っていただいて間違いない。

けどボクはあまりバッハが好きではないのです。

なぜかって?バッハは少し湿っているから。

ボクが好んで、乾いてるなーと思う作曲家は、

クリストファー・シンプソンやマルカントワーヌ・シャルパンティエ、

ジャン=バティスト・リュリなど、

主にバロック中期に活躍した人物なのです。

バッハよりちょっと前のヒトたち。

バロックの初期~中期にかけた音楽をよく聞きます。

無名の作曲家が残したとされる楽譜を、

メリハリの少ない当時の楽器や奏法で弾いた演奏を録音した音楽は、

何度聞いても飽きることがなく、毎回発見があって楽しいのです。

ただし、どれがどの曲だかわからなくなることが多いけど。

けど、そのどれがどの曲だかわからない、

ということこそ乾いている証であり、長所なのです。

ボクらの周りの音はというと。

「ワタシを聞いて、ワタシを聞き逃さないで、

ワタシと歌って、ワタシを買って」。

うるさい。

バロック以降、メリハリのある楽器や作曲法が発明されました。

それは音楽の表現の幅を格段に広げ、

優れた作曲家たちは「ワタシの思いの丈を聞いとくれ」と名曲を作った。

その深い表現は、まさしく芸術作品であり、ズシリと心の奥に届きます。

けどね。

どれがどの曲だかわからないようなものは、

価値がないとは思わない。

むしろカフェにはそういう音楽が必要です。

J.Sバッハを好きではないと言ったけど、

「現代人が必要とする古典」として、

バッハほどカフェにピッタリの作曲家はいないと思う。

ちなみに、バッハは珈琲が大好きで

『コーヒーカンタータ』という曲を作っています。