自分の足で歩くということ

彼がきちんと立ってさえいれば、搬送はしてあげられないけど、帆走はしてあげられる。長い人生、自分の無力さに失望することないんだ。

生後間もなく、彼の母親は彼を置いたまま家を出ていき、

父とその祖母と、祖母の姉(妹)にムンクは育てられました。

そういう幼なじみがボクにはいます。

小学1年生の授業参観の日。

クラスの子が彼に、

「お母さん、今日来んの?」と

いじわるな質問をしました。

それはわざとね。

彼は顔面をこわばらせて、

「来ると思うな」といつも嘘をつきました。

そのこわばった顔をみんな見たくて、

「ほんとに来るの? どんな服着てくるの?」

と聞きました。

もちろん。

お母さんは来るはずもなく、代わりに祖母が来た。

祖母は洋服の若い母親たちに混ざり、

浅葱色の和装で来て、頭もひときわ大きく結っていた。

子供ながらにボクは「まずい」と思いました。

だって、その目立った老婆が、彼の祖母だということは明らかだったから。

老婆の顔立ちはムンクをそのまま老婆にしたままで、

笑っちゃうほどのそっくりだったから。

彼は祖母のことを小声で「グランマ」と呼びました。

なにもかもが子供の目には好奇の対象でした。

いつしか。

彼は成長につれ、成績優秀の秀才になりました。

ただその振る舞いは相変わらずオイオイだったので、

いつまでたっても、いじ(め)られてた。

すぐにテンパると、とてつもなく悲しい顔をする。

ただでさえ色白なのに、その顔から血の気が引くと、

真っ青になり、また成長してますます彫りの深くなった顔は、

まるでムンクの1枚のようであることから、

あだ名は「ムンク」となりました。

ムンクは運動もオンチだったし、

とにかく、彼のすべては個性的で、印象に残る友人でした。

***

そのムンクから、ボクに突然連絡が来たのは、

カフェを始めてしばらくした頃です。

ムンクは大企業に入った後、成果主義に合わずに退職し、

公認会計士になっていました。

「今度キミのカフェに行ってもいいかい?」

ボクはもちろんと答え、ムンクを店で待っていました。

相変わらず色白で彫りの深い顔をしていました。

ただ随分とたくましく筋肉質になっていて、

「趣味で、トライアスロンをやってるんだよ」と言いました。

「それより、どうした? 突然」

「うん、実はオヤジと喧嘩して、家を飛び出したんだ。

ここ数年、あのオヤジとは、うん、ソリが合わなかったからね。

それで。

その時。

なにを思ったか戸籍を持って飛び出したんだ」

「戸籍?」

ここの珈琲はとても美味しいね、とムンクは褒めてくれました。

「それで戸籍をたどってみたんだ。

そうしたら、オレの母親の住所がわかったんだ。

九州だったよ。

そして、うん、意を決して行ってみたんだよ」

「・・・」

「そしたらね、ハハハ、爺さんがいて、ここにはいないと言われたよ。

それにしても、相変わらずキミはセンスが良いね。

この店はオレには少し眩しすぎる」

なんと言っていいかわかりませんでした。

「残念だったね。

まぁ、いまさら母親に会うというのも、

どうなんだろうね。気持ちはわかるけど、

会えなくて正解だったかもね」

「いや、それは違う。

やっぱりオレは、母親をこの目で確かめたいんだよ。

オヤジやグランマには、

『おまえの母親は鬼なんだよ』

そう言われて育ってきたからね。

本当に鬼かどうか、確かめたいんだ。

実はここからが相談なんだけど、

来週、母親と会うんだ、それもキミのこの店で」

ムンクの母は彼を産んだあと銀行に勤め、

独り東京で暮らしていたそうでした。

グレーのワンピースを着て、

銀縁のメガネをし、ショートカットの品のある女性で、

「井川さんは、小さいころから彼のお友達で

いてくれたみたいで、ありがとうございます」

よろしかったら、スタッフのみなさんでどうぞ、と

上等なマスクメロンをお土産に頂きました。

店で35年ぶりに再会した親子はぎこちなく座っていた。

ムンクが痛みにうずくまっていたときを、ボクは何度も見てきました。

たとえ友人であっても、

彼の心の痛みをどうしてあげることも出来なかった。

帆走はしてあげられても、搬送はしてあげられない。

なんであいつは、ボクの店を選んだんだろう、

そんなことばかりがずっとずっと気にかかりながら、ボクは珈琲を淹れました。

彼がきちんと立ってさえいれば、

搬送はしてあげられないけど、帆走はしてあげられる。

長い人生、自分の無力さに失望することないんだ。

そんなことを珈琲を淹れながら思ったりしたのです。

宇田川町店にて

6/13(金)〜15(日) 映画「紫陽花とバタークリーム」上映

http://www.mamehico.com/news/16910.html