病理学的には「老衰」というものは存在しません。これは社会的な、あるいは物語的な概念です。死亡を宣告した医師が死亡診断書に「老衰」と記すとき、そこには人生全体をとらえたうえでご家族と合意しえたことがみてとれます。その高齢者の人生とご家族との関係性を理解している家庭医ならではのものかもしれません。
一方、急性期病院では、なかなか「老衰」として看とりが行われることはありません。たとえば、昨年度の沖縄県立中部病院で書かれた死亡診断書のうち「老衰」は4件でした。つまり、私が働いている病院における老衰死率は0.7%にすぎません。
これは当たり前のことで、そもそも急性期病院のミッションとは、診断を追求し、診断に基づく治療を行うことだからです。もし研修医が救急外来で、ろくにアセスメントもせずに「老衰ですね」と家族に説明していたら、そりゃぁ指導医としては「ちゃんとやれよ」と叱責することになるでしょう。初対面で「老衰」かどうかなんて判断がつくはずがないからです。
ただ、こうして医師に診断を追究する傾向が強いと、いや応なく「老衰」は忌避され、診断に基づいた介入が過密になってゆきます。そして、生活のもとではなく、医療のもとで死亡する高齢者が増加してゆきます。多数の管と、刹那な診断名とともに・・・。それはまるで、死へのプロセスですら病院で扱われるべき「病気」となってしまっているかのようです。
図は、平成28年の人口動態統計をもとに、都道府県別に75歳以上の老衰死率(死亡診断書に「老衰」と書かれた割合)と在宅死率(自宅もしくは老人ホームにおいて死亡した者の割合)との相関をみたものです。両者には強い相関がみてとれ、地域差の大きさも明らかです。とくに九州の老衰死率の低さが気がかりです。
その背景には、何かあれば病院に搬送され、それを積極的に引き受けることを是としてきた私たちの医療文化があるのかもしれません。ゆっくりと老衰を迎えている高齢者について、「なぜ食べられないのか」「なぜ呼吸が不安定なのか」を明らかにしようとすれば、病院へ搬送されて「老衰」以外の診断名が与えられるようになり、経管栄養や呼吸補助などの延命的な介入が行われる可能性が高まります。
自然に迎えようとしている流れを変えることはできません。もちろん、老衰という人生の最終段階において「搬送しなければよい」というほど簡単な話ではなく、在宅医療と介護が連携しながら家庭や施設を支えることで、「搬送しなくてもすむ」地域づくりが問われています。