現代の若者が考える未来の働きかたとは~人生における選択肢の多様化と21世紀の働きかた~

戦後、3つの技術発展によって人生における選択肢は多様化しました。

現代の人々、特に「ゆとり世代」は未来に対して希望も持ちつつ、不安もかなり増大していると思います。その原因となっているものは、「人生における選択肢の多様化」です。学び、遊び、恋愛、結婚、出産・育児、職業生活等、人はライフイベントごとに選択肢を持ち、選択し続けます。戦後、下記の3つの技術発展によって人生における選択肢は多様化しました。

1つ目は、医療技術の発展です。これにより、人生の持ち時間が延びました。1947年の男女平均寿命を時間に換算すると、52歳前後で約45万5500時間ですが、現在は83歳前後で約72万7000時間です。時間という資源が大幅に増えたことで、長い人生の中で何をするかという選択肢が増えました。

2つ目は、IT・通信技術の発展です。代表的なものはスマートフォンが挙げられます。手元でどこでも誰でも世界中の情報に簡単にアクセスできるようになりました。世界中にいる人々の多様な人生に簡単に触れられるようになり、自分の人生をどうしていくか判断する情報が増えて、ライフイベントごとの選択肢は増えました。Facebook、Instagram等のSNSは、多数の友人のライフスタイルをより迅速かつ自分の身近なものとして感じさせてくれます。

3つ目は、移動・交通・輸送技術の発展です。人・物の移動が簡単かつ速くなり、活動空間が拡大しました。国境を越えて、世界中で人と物が交差しています。これにより、現代人の活動範囲は世界に広がり、選択肢が増えました。

さらに、これら3つの技術発展により、世界的な環境変化のスピードも速くなりました。たとえば、医療技術の発展により人口も増えているのにもかかわらず、世界の資源は有限です。また、IT・通信技術と移動・輸送技術の発展により、国境をまたいだ活動が増えてきます。すると、自由化が進み、競争が激化し、世界の格差が大きくなると想定されます。

人生における選択肢が増えたうえに、環境変化のスピードも速くなっています。すると、1つの組織に深くコミット(関与)しすぎると、選択肢が増えているにもかかわらず、他の選択肢を選べなくなるという不安を感じるようになります。以上のような理由からゆとり世代は、やりたいことが見つかるまでは、深いコミットメントを求められる組織にいるよりも、自分がライフスタイルを変えたい時に変えられるような、コミットメントの程度を比較的コントロールしやすい組織に所属したがる人が多いように思われます。

ゆとり世代の組織に対するコミットメントについての考え方は、以上のようなものです。そのため私は、「新卒一括採用・年功序列・終身雇用」といった伝統的な日本企業の雇用形態が、これから先21世紀におけるワークスタイルとして、ゆとり世代以降の世代にはマッチしなくなっていくと考えます。人生における選択肢が加速度的に多様化するにも関わらず、人生の大部分を占めるワークスタイルは固定されています。

非正規職員の流動性はありますが、正規職員の流動性はないのが日本の現状です。新卒一括採用で失敗して非正規職員に望まずしてなった、あるいは正規職員でも第一志望の企業に落ちてしまった人が、入社後に再び新卒の時と同じ夢や目標に向かってリベンジするのは難しいという現状があります。実際に私の同級生でも、人生を嘆いて自殺未遂を起こした事例などがあり、彼らを見て辛い思いをしました。

「失われた20年」で日本の15~24歳の若者の自殺率は世界トップになってしまいました。そして、彼らの自殺原因は失業率ではなく、「これ以上生きても意味がない」と感じる希望閉塞率であることがわかっています。この希望閉塞感は、新卒採用で人生が全て決まるような「新卒至上主義」からきていると思います。企業の入り口を「新卒」という一つのタイミングではなく「既卒」「中途」等できるだけ複数にし、やり直しがきくようにする必要があるのではないでしょうか。

また、入社後のミスマッチを感じ、転職したい層も出てきます。入社後のミスマッチが起こりやすい理由は、先ほど述べたライフスタイルの選択肢の多様化です。

「どこで、どのようなキャリアを積むのか」

「何を学ぶのか」

「どのような人といつ・どこで恋愛し、結婚するのか、またどこで家庭を持つのか」

上記のようなライフイベントだけでも、終身雇用でお世話になる1つの企業が対応できるようには思えません。

「ゆとり世代」以降、加速度的に価値観が多様化する中で、企業がこれまでの人事スタイルで従業員の最高のモチベーションとパフォーマンスを引き出し、業績を高めていくことは難しいと思います。雇用の流動性を高めることで、労働者が人生における分岐点で最適な職場をフレキシブルに選択できるような社会が、これから求められるのではないでしょうか。