安倍総理が、憲法解釈の変更について、最高責任者である自らの判断でなしうる旨を発言している。これに対して、私を含めて、立憲主義の観点から厳しく批判している。
この私や民主党からの指摘について、一部メディアなどから、民主党政権当時に、憲法解釈を内閣が行うとしていたことと矛盾しているとの批判がなされている。しかし、この批判は、「政府内部において誰が責任者か?」という命題と、「その責任者は、憲法解釈について、どの程度の権限があるか?」という命題を意図的に混同させるもので、事実に即していない。
確かに民主党政権では、「政府による憲法解釈について、」「内閣が責任を持って行う」(平成21年11月2日衆議院予算委員会.鳩山総理答弁等)とし、私を含めて法令解釈担当の国務大臣が置かれた。
しかしこれは、「政府による憲法解釈について、」内閣が行うとしたにすぎず、決して、「政府による憲法解釈の変更について」、何か特別なことを言ったものではない。政府内部では、内閣法制局ではなく、担当大臣を中心に政治家で構成された内閣が、責任をもって解釈を行う旨を述べたのであり、あくまでも、政府内部における権限と責任の所在についての問題である。内閣そのものによる解釈であれ、内閣法制局による解釈であれ、その解釈変更が自由にできるなどということは、述べていない。
むしろ民主党政権では、「政権が替わったからといって憲法の解釈を恣意的に変更するということは、あってはいけないことだ、許されないことだ。」(平成22年3月16日参議院内閣委員会.枝野国務大臣答弁)と明確にしている。一部メディアは、「過去の解釈、判断に間違いがあるということがあった場合には、それは変更する余地はある」という答弁を部分的に切り取っているが、この答弁も、「一応余地としては、過去の解釈、判断に間違いがあるということがあった場合には、それは変更する余地はあるということは一応残しておかないといけないかなというふうには思っておりますが、基本的にはやはり過去の解釈を恣意的に変更するということはあり得ない。」(上記枝野答弁)と述べた中の一部分であり、内閣が、その責任で過去の解釈を恣意的に変更することを明確に否定している。
憲法に限らず、新たに生じた事態への対応、新たに浮上した論点への対応など、常に新たな法令解釈が必要になりうる。これについて、行政権としての権限と責任を持っているのは、あくまでも『内閣』であり、その事務機関に過ぎない『法制局』ではありえない。しかし、だからといって『内閣』が過去の解釈の積み重ねを無視して、自由に解釈を変更できるものではないというのが、民主党の、そして、立憲主義から当然の見解である。
これに対し、問題になっている平成26年2月12日衆議院予算委員会における大串博志君に対する安倍総理答弁は、政府内部における権限と責任の所在について答えたものではない。
大串君の質問は、一貫して、"政府の解釈によって、憲法改正を要することなく、集団的自衛権の行使が可能になる"余地を認めたと受け止められる安倍総理の2月5日の答弁に関するもの、つまり、政府による解釈変更の余地についての質疑の中でなされたものである。
安倍総理の答弁に先立つ直近の質問も、「(安倍総理は、)政府が適切な形で憲法解釈を明らかにすることによって集団的自衛権の行使は可能であり、憲法改正が必要だという指摘は必ずしも当たらない(と述べているが)、新しい意味としてこの答弁をされたのか、総理のご存念をお聞かせください。」というものであり、これに対して、「最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです、私なんですよ。」と答弁している。
これは、質疑の経緯及び質問の内容を踏まえれば、"最高責任者は総理であり、かつ、選挙で審判を受けるのだから、解釈変更も自分の責任と権限で自由にできる"旨を答弁したものと受け取るのが自然である。私たちが政権時代に述べてきたような、政府内部において内閣か法制局かという権限の所在についての答弁にとどまるとは、受け止めがたい。だからこそ、私や民主党以外からも、立憲主義と法治主義を踏み外した問題発言であるとして批判が出ている。
いずれにしても、一部メディアなどによる私や民主党に対する批判は、意図的に政府内部の権限の所在という問題と、その政府がどこまで解釈変更可能かという問題とを混同させたもので、ためにする批判であり、明確に反論しておく。