終わりを迎える「花子とアン」 仲間由紀恵の表情に生きることの複雑さが見てとれた

年末のNHK「紅白歌合戦」で、朝ドラ「花子とアン」に出演中の女優・仲間由紀恵さんが司会役を打診された、というニュースが流れました。それに対して仲間さん側は、「ヒロイン役の吉高由里子さんとの"司会共演"を希望したい」と返したのだとか。
NHK「花子とアン」

年末のNHK「紅白歌合戦」で、朝ドラ「花子とアン」に出演中の女優・仲間由紀恵さんが司会役を打診された、というニュースが流れました。それに対して仲間さん側は、「ヒロイン役の吉高由里子さんとの"司会共演"を希望したい」と返したのだとか。この短いニュースが、いよいよ最終回に近づいた「花子とアン」を、一気に総括した--そう感じたのは私だけでしょうか?

吉高由里子が演じる、主人公の花子。仲間由紀恵が演じる、腹心の友の蓮子。この朝ドラは「花子とアン」ではなくて、実は「花子と蓮子」という二人の対比の中に展開したドラマではなかっただろうか、と思います。

もちろん、本来はそうではなかったはず。「村岡花子」という主軸は明確だったし、『赤毛のアン』という偉大な作品に関する様々なエピソードが盛り込まれるのは自明のこと。大翻訳家の「波瀾万丈の人生」こそが筋のメインだった。

ところが、蓮子のキャラクターが回を追うごとに膨らんでいき、いわば「脇役」が存在感を増し、その人がらみのエピソードに視聴者は目が離せなくなり......。望まない結婚、炭坑王の夫・伝助とのからみ。息子との言い争い、花子とのぶつかりあい、友情のほころび。私自身も蓮子の表情にぐぐっと引き寄せられ、画面をじっと凝視してしまいました。蓮子を演じたのはそう、仲間由紀恵。彼女の表情の中に、人が生きる複雑さというものが見てとれたからかもしれません。

台詞の無いシーンでこそ、際立つ演技力。目が切々と語りかけてくる。絶望とかすかな希望とが、ひとつの顔の中に交錯している。そんな蓮子に釘付けになってしまう。一方で、花子のキャラクターは? 花子がしゃべるシーンになると、視聴者の私はつい別のことを始めてしまう。忙しい朝の時間帯、お皿を洗ったりコーヒー淹れたり、仕事の準備をしたり......「ながら視聴」にシフトしてしまう。

もちろん、花子役・吉高由里子さんもきっと頑張ったことでしょう。しかし、根本的なところで「悲劇」がおこっていたのかも。吉高さんのサバサバした軽やかな今様キャラは魅力的。だけれど花子を演じるとなると、どうにも翻訳者・言葉を扱う文学者に見えてこない。静的、内省的でコツコツと辞書を引き文章に向き合う人物には......。

「赤毛のアン」の翻訳シーンもさらっと完了。花子とアンにまつわるエピソードはいずれも深くは刻まれず。悲惨な出来事も、絶望までには届かないし、喜びも感激までには昇華しない。表面的にスルーしていってしまうのです。きっと役者のせいだけでないのでしょう。脚本や演出にも原因はあったのでしょう。そんな風に、「花子」という人物造形に物足りなさがあればあるほど、「蓮子」の深さが際立つ、というパラドックス。

もし、このドラマに仲間さんが出演していなかったらどうなっていたのだろう。想像すると、ちょっとヒヤリ。

経験したことや発見したこと、一見遠回りのように思えるさまざまな出来事を自分の中にこつこつと蓄積していく。いつか血肉になって表面に滲み出てくる。それが演技に奥行きを与え、登場人物に味わいを添える。特に半年という長丁場の朝ドラでは、そうした役者の演技力がキーになる、ということでしょうか。ドラマを「牽引」した人に司会のオファーが届く、というのは、ある意味自然な流れと言えるのかもしれません。

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