あなたがそこまで言うのなら

以前の職場では、意見の対立が頻繁にあった。 組織で働く人の仕事は殆どの場合、自分の意見だけでは事が進まず、様々な人の意見を聞いた上で「落とし所」や「納得感」が出来上がり、その上で事が進む。 「効率的でない」という批判もあるが、こればかりは仕方がない。いかに正しいことを言っても、それに協力してくれる人がいない限り仕事は進まない。だから、会議の場の多くは「何かアイデアを出す」ことよりも、「納得感を醸成する」ことに当てられていた。

以前の職場では、意見の対立が頻繁にあった。

組織で働く人の仕事は殆どの場合、自分の意見だけでは事が進まず、様々な人の意見を聞いた上で「落とし所」や「納得感」が出来上がり、その上で事が進む。

「効率的でない」という批判もあるが、こればかりは仕方がない。いかに正しいことを言っても、それに協力してくれる人がいない限り仕事は進まない。だから、会議の場の多くは「何かアイデアを出す」ことよりも、「納得感を醸成する」ことに当てられていた。

さて、この時に厄介なのが、「主張を曲げない人々」だ。

こちらからすると、明らかにその人達の意見は間違っているが、「なにかしっくりこない」であるとか、「感情的に納得できない」とばかり言い、話し合いにならない。 「理由を教えてくれ」といっても、「なんとなくだから、理由を説明できない」とかわされる。

こういう時に、データを示したり、論理的に畳み掛けたり、何とかそういった人々を説得しようとする人もいるが、大抵の場合は失敗する。なにせ、「論理的にはそうだが、納得はしていない」という言葉を使うので、論理やデータでは説得できない。

私がまだ駆け出しの頃、このような会議は大変な苦痛であった。 結論のわかっている話を、何時間も議論すること。それは私にとって無駄としか思えなかった。

また、当初これは自社だけの現象だと思っていたが、いろいろな会社に訪問すると、「どうやらウチだけではない」ということもわかった。

告白すると、私はそういった「なんとなく納得出来ない」という言葉を使う人々を「ダメな人たち」だと思っていた。 「この人達は、物の道理もわからないのか」と。

「我々の時間を浪費するのなら、理由ぐらいきちんと説明する責任があるだろう」とも思っていた。当時ちょうど「ロジカルシンキング」がもてはやされていたのは、私が感じていたことを多くの人もまた、感じていたからなのだろう。

しかし、ある一つの会議を境に、その考え方は転換を迫られた。

その会議はある一人のマネジャーの処遇を決める会議だった。そのマネジャーは前年・今年と目標未達成。どう考えても今のポジションに対して能力不足であった。

当然ほとんどの人たちは、「降格せよ」という意見だった。データもそれを証明している。私も「降格やむなし」と考えていた。

しかし、ある課長が頑として「降格はダメだ」と反対する。理由を聞いても「なんとなく」で要領を得ない。いい加減、私もイライラしていた。まだまだ話すべきことがあるのに、このままではこれだけで一日終わってしまう。

社長を見ると、じっと目をつぶっており、事態の収集をしようという気はなさそうだ。私の隣に座っていた部長が、なんとか説得しようと論理的に説得していたが、効果はなさそうだった。

この膠着状態の時、あるマネジャーがつぶやいた。

「○○さん、降格してはいけない、という意見はよくわかりました。ただ、大変申し訳無いのだが、私にはあなたの言っていることがよくわからない。あなたがそこまで言うのなら、何かあるのだろう。私もそれを共有したい。もう一度説明してもらえるだろうか」

この課長はそれを聞き、ポツポツ語り始めた。

もちろん成績だけを見れば降格に値する。しかし、成果につながる行動はきちんと行っており、成果が出るにはもう少し時間が必要であること。彼が「いい人である」ということ。その他様々なデータには現れない行動などだ。

結論からいうと、そのマネジャーは降格を免れた。大方の意見は、「確かに、あと1年様子を見たほうが良い」というものだった。

この会議は私にとって非常に勉強になった。特に、「あなたがそこまで言うのなら」という発言は、重要な一言だった。

なぜなら、その発言により、場の対立が解消したからだ。 「全員で、何が問題なのかを、もう一度明らかにしよう」という同意がとれたのだ。その一言が発せられるまでは、「なんとか相手の話の欠点を探そう」と皆が思っていたにも関わらずである。

つまり、「意見の対立を尊重する」と言うのは、単なる題目ではない。データよりもその相手を信用する、ということだ。

すなわち、皆が「あなたがそこまで言うのなら」と思うことができれば、そこには不毛な対立は存在しない。

その頃ちょうど読み始めていたピーター・ドラッカーの著作にこのような一文があった。

「明らかにまちがった結論に達している者がいても、それは、何か自分と違う現実を見、自分と違う問題に関心を持っているからに違いないと考えなければならない。」

実際には、「明らかに間違った結論に達している人」に対しても、敬意が問われるということだ。相手を「ダメな人」だと思うなど、もってのほかだった。

会議では常に「自分と異なる意見にこそ、真実があるかもしれない」 と思うことに努めるべきなのだろう。実際にそれをやることは極めて難しいのだが。

(2014年1月9日 Books&Appsに加筆・修正)

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