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太平洋戦争開戦から72年 戦争で負傷した日本の傷痍軍人の今

2013年12月08日 16時10分 JST | 更新 2013年12月08日 17時39分 JST
時事通信社

1941年12月8日、日本軍はアメリカ・ハワイオアフ島の真珠湾を攻撃した。太平洋戦争の開戦である。

あれから72年の歳月が経った、2013年12月7日(現地時間)、犠牲者を追悼する式典が真珠湾に面した公園で開かれた。約2500人が参列し、攻撃が始まった午前7時55分に黙とうを捧げた。47NEWSは、式典に出席したハリス米太平洋艦隊司令官のスピーチを次のように報じている。

今年10月に就任した日系米国人のハリス米太平洋艦隊司令官は「攻撃で米国は多くの物を失ったが、世界は第2次大戦を通じて自由という大きな財産を得た」とスピーチ。今後もアジア太平洋地域の安定に寄与することが米国にとって重要だと訴えた。

(47NEWS「真珠湾72周年、犠牲者に黙とう 米ハワイ」より 2013/12/08 09:56)

■戦争で傷ついた日本の傷痍軍人の今

日中戦争や太平洋戦争で負傷したり病気になったりした元軍人らでつくる傷痍(しょうい)軍人会の全国組織、財団法人日本傷痍軍人会が創立60周年という節目を迎え、11月末に解散した。平均年齢は90歳を超え、組織運営が難しいためだ。各地の傷痍軍人会も相次いで解散している。朝日新聞デジタルでは、大阪府傷痍軍人会の最後の会長となった木南(きなみ)龍雄さんの体験を伝えている。

「戦争がなく、新たな傷痍軍人は生まれなかった。私たちの代で解散できるのは喜ばしいこと」

最後の会長となる木南(きなみ)龍雄さん(92)=大阪市東淀川区=は45年6月、米軍の空襲で右目を失った。

船場の洋品店に勤めていた20歳の時に召集された。歩兵砲中隊に配属され、2カ月後に真珠湾攻撃で開戦。東南アジアに向かう予定だったが、乗る予定の輸送船が沈み、大阪で本土決戦に備えた。「勝つ戦争と信じて疑わなかった」

(中略)

「また国を守れといわれたら、もう一度戦争に行く」。負けん気もあり、周囲にそう語ってきた。一方で「自由にものを言えるようになって良かった。矛盾かもしれんが負けたから」

朝日新聞デジタル 「傷痍軍人会、相次ぐ解散 開戦72年、高齢化で運営困難」より 2013/12/08 09:44)

10月3日、日本傷痍軍人会の最後の式典となった、戦傷病者特別援護法制定50周年並びに財団法人 日本傷痍軍人会創立60周年記念式典が東京都渋谷区の明治神宮会館で開かれ、天皇皇后両陛下が出席し、安倍晋三首相、田村憲久厚労相らも参列した。天皇陛下は以下のようにお言葉を述べた。

昭和20年の終戦以来68年の歳月がたちました。国のために尽くし,戦火に傷つき,あるいは病に冒された戦傷病者の皆さんが歩んできた道のりには,計り知れない苦労があったことと察しています。そのような中,皆さんが互いに,また家族と,手を携えつつ,幾多の困難を乗り越え,今日の我が国の安寧と繁栄を築く上に貢献してこられたことを深くねぎらいたく思います。戦傷病者とその家族が歩んできた歴史が,決して忘れられることなく,皆さんの平和を願う思いと共に,将来に語り継がれていくよう切に希望してやみません。

(宮内庁「主な式典におけるおことば(平成25年)」より)

式典には会員や家族ら1100人が参加。MSN産経ニュースによると、自身も中国大陸で銃弾を受け、大けがをした奥野義章会長(90)は式辞で、「不撓(ふとう)不屈の精神と周囲の方々の温かい支えにより幾多の困難を克服し、社会の各分野で活躍してきた」と振り返ったという。

1952年に設立された、日本傷痍軍人会は当初35万人の会員がいたが約5千人に減少し、支部も解散が続いている。厚生労働省は2006年3月、戦傷病者やその妻たちの体験を後世代に語り伝える施設として「しょうけい館」(東京・千代田区)を開館。常設展示では、戦地で受傷した時身につけていた実物の資料や、様々な写真、映像、体験記などを展示している。戦争を知る者は減り続けるが、戦争と戦後の記憶をどう後世に伝えるのか、戦争を知らない世代こそ考えなければならない課題なのではないだろうか。

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