「夢だけは 壊せなかった 大震災」女川町の子供たちが描いた"未来の町"が今、実現しようとしている

「夢だけは 壊せなかった 大震災」女川町の子供たちが描いた"未来の町"が今、実現しようとしている

東日本大震災からの復興が進む宮城県女川町。死者・行方不明者900人以上という甚大な被害を受けたこの町も、サンマや牡蠣など、豊かな水産の町の賑わいを取り戻しつつある。

しかし、女川の人たちは「震災の記憶を風化させてはならない。苦しいが、次の世代の教訓にしなければいけない」と口をそろえる。

震災直後、女川の小中学生は学校の授業で自分たちの思いを五七五の俳句に込めた。震災から6年が経過した今、その俳句を読み返すと、子供たちの苦悩、悲しみが綴られている一方で、絶望の中から立ち上がろうとする姿がリアルに描き出され、読む人の胸を打つ。

一番思い出したくない、しかし忘れてはいけない「あの日」のことを、子供たちはどう受け止めていたのか――子供たちの俳句や作文をまとめた作品集の編集を手掛けた太田美由紀さんが、子供たちに俳句の作成を指導した教諭の佐藤敏郎さんと制作秘話を振り返ったトークイベントの模様をレポートする。

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見上げれば ガレキの上に こいのぼり

「ガレキだらけの街をとぼとぼと歩いていた。頑張って顔を上げた。そうしたら、マリンパルの上にこいのぼりが立っていた。この句には、悲しみも希望も、すべてが入っている。すごいなと思いました」

女川第一中学校で国語教諭だった佐藤敏郎さんは、女川町の人たち一人一人に語りかけるように、一つの句を紹介した。

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2011年3月11日、東日本大震災。最大20.3メートルの津波が女川町を飲み込んだ。家屋のおよそ9割が被害を受け、女川町の10人に1人が命を落とした。震災後、佐藤さんは中学校の生徒たちが詠んだ多くの俳句に力をもらったと語る。佐藤さん自身も、大川小学校に通わせていた大切な娘を津波で亡くしていたからだ。

あれから6年8カ月。2017年11月3日から5日の3日間、女川町まちなか交流館で町民文化祭が開催され、最終日には、「まげねっちゃ」という書籍について語るトークショーが行われた。女川町でたった1軒の本屋、「本のさかい」の再建を祝ってのイベントだった。

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「まげねっちゃ」はその女川の小さな本屋ながら2000冊を売り上げている。

女川町の小・中学生の俳句、作文、絵、写真、そして女川の全小中学校の先生による克明な震災の記録を収録し、震災から1年後に出版されたものだ。

「ほとんどの生徒が家を流され、家族や親戚を亡くしていた。正直なところ、そんな状況で俳句の授業をやっていいのか、できるのか不安でした。それでも校長は、"子どもたちには向き合う機会が必要だ"と言うんです。自分自身を奮い立たせて教室に向かいました。"何を書いてもいい、書けなくてもいい、どんな授業になってもいい"。そういう思いで、生徒たちの前に立ちました。

でも、生徒たちはみんな、すぐに指を折り、言葉を数えはじめました。今までにないほどに集中して俳句に取り組みはじめました。結果的には全員が俳句を作り、提出してくれたのです」

ふるさとを 奪わないでと 手を伸ばす

ただいまと 聞きたい声が 聞こえない

夢だけは 壊せなかった 大震災

「辛い思いを詠んだ句もありましたし、未来の女川を描いた句もありました。俳句を作った時、教室の窓から見えるのは、何も無くなってしまった町と、がれきの山でした」

窓辺から 見えてくるのは 未来の町

「なのに、そこから"未来の町"と詠んだ女の子がいました」

佐藤さんは、高校生になった生徒たちと会った時、こう尋ねた。

「震災後の俳句の授業は、みんなにとってどんな授業だったのか」

彼らは、震災後ほんの2カ月ほどの5月、授業で初めて俳句を詠んだ。そして半年後、2度目の俳句を詠んだ。どんな思いで言葉を選んでいたのだろう。

「俳句なら、気持ちを全部説明できなくてもいい」

「五七五の17文字しかないから、会いたいとか、青い空とか、こいのぼりとか、そういう短い言葉に託して書ける」

「言葉にすることは大切かもしれないけど、全てを説明しなくていいのはよかった」

「みんなの句が掲示されたから、いろんな俳句を詠むことができた」

「一人じゃない、私と同じ気持ちの人がいる、こんなふうに考えてもいいんだなって共有できた」

「俳句を見るだけで、他の人の考えも認め合えた」

佐藤さんは、ふとこう思った。

「災害があってもなくても、今の世の中にとって、これはとても大切なことなんじゃないか」

「女川本フェア」で展示された子供たちの俳句
「女川本フェア」で展示された子供たちの俳句
佐藤敏郎さん提供

そしてまた、震災は、佐藤さんが子どもたちと学ぶ国語の授業を大きく変えた。

「新年度、国語の教科書を開くと、最初に中島みゆきの詩が載っています。『永久欠番』という歌の歌詞です。

どんな立場の人であろうとも いつかはこの世におさらばをする

あの年まで私は、まず、中島みゆきとはどんな歌手かを長々と説明した後で、こう尋ねていた。

"この世におさらばをするってどういうことですか?" "はい、死ぬことです"

そんな授業をしていたんです。

あの震災後、学校が再開して最初の国語の授業で、いきなり、"この世におさらば"から始まる教科書を使わなければならない。どうしようか。1ページ目からとばすわけにはいきません。

悩みました。これをどう読ませるか。考えれば考えるほど嫌だった。でも、あの歌詞は、一人一人かけがえのない存在なんだよということを歌っている。子どもたちはみんな、深くその歌詞の奥深くに触れることができ、考えることができたと思います」

「必要なことはすべて教科書に書いてある」

佐藤さんは震災後、改めてそう思ったという。

「例えば、国破れて山河あり。あの時まさにそうでした。国破れて山河ありってどういうことだべね、杜甫はどんな思いでこれを書いたんだって、子どもたちと一緒に、深く考えました。

そして、松尾芭蕉は平泉で、時の移るまで泪を落としはべりぬ。時の過ぎゆくまで涙を流し、夏草や兵どもが夢の跡と詠みました。

かつて町があったところが草むらになっている。なぜ松尾芭蕉は涙を流したのか。子どもたちの読み方は、例年のものとは全く違いました。教科書には大事なことが全部書いてありました」

そして今、女川一中の生徒たちが詠んだ俳句は、光村図書が出版する中学1年生用の国語の教科書にも掲載され、全国の子どもたちに伝えられている。

トークショーの会場には、佐藤さんの教え子の保護者も足を運んでいた。

夢だけは 壊せなかった 大震災

この句を作った生徒の父親である山田さんである。この句は、女川一中のみんなの合言葉になった。新聞にも掲載された。

「石の学者になりたいという震災前からの夢を持ち続け、息子は今も一生懸命勉強しています。また今日、家に帰ったら、久しぶりに家族とこの本を読みながら話をしたいと思います」

山田さんはマイクを手に、会場に向けてそう話した。

あの津波で、多くの町民が家や家族、親戚を亡くし、町は色をなくした。

しかし今、あの時の子どもたちの描いた「未来の町」が形になろうとしている。大震災が壊せなかった「夢」が実現しようとしている。

山を削り、かさ上げし、高台への住宅の移転が進む。町の中心には新しい女川駅が完成し、2015年3月に営業を再開した。その改札を抜けるとテナント型商業施設「シーパルピア女川」の向こうに光る海が見える。今では、町民だけでなく遠方からの観光客も多く訪れるようになった。

トークショーが行われた女川まちなか交流館は、そのシルバーピア女川の一角にあり、窓からは美しく完成した街並みや楽しげに話しながら行き交う人の様子が見える。

その先の海は穏やかに輝き、うみねこがにゃあにゃあと鳴きながら、震災前と変わらない様子で漁船を追いかけていた。

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