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タイ「プミポン国王」とは何だったのか?

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10月13日午後、タイのラタナコーシン王朝9世のプミポン王が逝去した。

88歳の高齢であり、ここ数年は体調を崩され公式の場に臨席することも少なく、病院での治療に専念していただけに、国民全体がこの日が来ることを覚悟していたとは思う。だが、20世紀半ばから70有余年の間、その威徳によって国民を統合し、全国民的敬愛を集めていただけに、その死はタイの将来に、ひいては東南アジア全体の今後に少なからざる影響を与えるに違いない。


当初は象徴的存在

1946年、王宮の一角で起こった事件によって兄君の8世王が不慮の死を遂げたことから王位を継承したプミポン王は、当初はまさに象徴的存在であったように思う。それというのも、当時はピブン元帥、"鉄人宰相"と呼ばれたサリット元帥、タノーム元帥、プラパート元帥らによる軍事独裁体制が続いたことにより、現実政治とはかけ離れた存在であったからだ。

だがベトナム戦争が激化し、タイもまたアメリカ軍の後方基地としての役割を担うことでタイ社会全体に不安が募る一方、タノーム、プラパート両元帥による軍事独裁体制がみせる超法規的振る舞いに国民的怨嗟の声があがるようになり、学生や知識人が民主化の声を挙げ、軍事独裁体制打倒に決起する。社会全体が大混乱に陥ったのだ。この時、国王は学生による行動を「是」とする方向を打ち出す。1973年、「学生革命」が達成された瞬間だった。

その後、タイは束の間の「民主主義」の時代を迎えることになるが、社会の混乱は続いた。国外に追放されたタノーム元帥が僧侶に身をやつし帰国を申し出るや、国王は許した。タノーム元帥の持つ国軍に対する影響力を考慮するなら、一枚岩の団結を取り戻そうとしていた国軍との融和がタイ社会の安定に繋がると判断されたからではないか。


プレム首相を全面支持

国王の振る舞いが俄かに政治的色彩を帯びるようになったのは、やはり1981年4月の「4月バカ・クーデター」であった。当時のプレム首相(現枢密院議長)に強力な指導力を求める「ヤング・タークス」と呼ばれた軍部の佐官クラスの一群が決起し、首相に「お手盛りクーデター」を迫ったのだ。基盤が不安定な政権を自ら解体し、閣内の不和分子を一掃し、クーデターによって一気に強力政権を構築することを求めたのである。

だが、プレム首相は彼らの要求を拒絶した後、一時姿を隠す。その間、国軍幹部に加え、退役有力将軍たちの支持を得た「ヤング・タークス」はバンコクを制圧し、一時はクーデター成功かにみえた。ところが、動静不明であったプレム首相は、クーデター勃発翌日、東北タイの要衝で知られ、東北タイを管轄する第2軍管区司令部が所在するコーラートで、国王一家と共に姿を現したのだ。あまつさえ王妃は、ご一家とプレム首相のコーラート滞在をラジオを使い全国民向けに伝えた。「我らは首相と共に在り」と。かくて国軍、政財界、官界の要人は先を争ってバンコクからコーラートに向かい、恭順の意を示すのであった。

この時点で、クーデター陣営は瓦解する。バンコクに"凱旋"したプレム首相は、国王の全面的支持を背景に、1988年夏まで長期安定政権を維持することになる。


国民的和解の象徴に

以後、国王は政治的混乱が回帰不能点に近づく手前で、混乱を収拾してきた。もちろん、その傍らには国軍に強い影響力を維持していたプレム大将が常に控えていた。

たとえば、1992年の「5月事件」である。前年2月にチャーチャーイ政権打倒のクーデターを主導したスチンダー陸軍司令官は、自らは政権に就かないという前言を翻し、92年3月の総選挙後に3軍幹部と共に制服を脱ぎ、彼らと共に政権を組織した。そこで「スチンダー首相はウソつきだ。これは形を変えた軍事独裁だ」と、学生や知識人が決起した。政権は3軍に加え警察まで投入して実力で制圧に掛かった。バンコクの中央官庁街から王宮前広場に続く一帯で、まさにその3年前の1989年6月に北京の天安門広場で発生した"修羅場"が再演されたのである。

その直後、国王は政権と反政権側の双方の指導者を呼び寄せ、事態の収拾と国民的和解を呼び掛けた。玉座に坐る国王の前に恭しく跪く両者の姿は、テレビで全国中継された。国民の目に、国王はまさに「国父」と映ったに違いない。

2000年代に入り、タイ社会はタクシン派対反タクシン派の対決に翻弄されることになるが、タクシン政権を倒した2006年のクーデターにおいても、その後のバンコク中心街を舞台に展開されたタクシン派対反タクシン派の激しい街頭行動に終止符を打った2014年のクーデターにおいても、国王の振る舞いが事態収拾へのキッカケとなった。

1973年以来、国内の混乱を収拾し、国民統合の拠り所として、国民的和解の象徴として振る舞われた9世王だったのである。


「ABCM複合体」と「新興勢力」の架け橋

ここで視点を変えて、1973年以来のタイ社会の動きを大筋で追ってみると、やはり旧体制派と新興勢力の対立だったように思う。前者がABCM(王室・官界・財界・国軍)複合体であり、後者が1985年9月の「プラザ合意」を機に集中豪雨のようにタイに注がれた「円」がもたらした、経済構造の変化のなかから生まれた新興企業家であり、中産階級である。

ABCM複合体は、「国王を頂点とするタイの民主主義」を盾に、既得権防衛に腐心した。一方の新興勢力や中産層は、"制限のつかない民主主義"を志向する。新興勢力のトップ・ランナーがタクシン元首相であり、1992年の「5月事件」を周辺から支えたのが中間層だった。2005年末以来10年ほど続いたタクシン派対反タクシン派の戦いが、ともに「民主化」を掲げながらも相対立していた背景には、やはり「タイの民主主義」を是とするか否とするかの越えられそうで越えられない深い溝が横たわっていた。その溝に"国民的和解の橋"を架け続けたのが9世王の威徳なのだ。

その9世王が不在となった。

国王はシリキット王妃との間に1男3女をもうけられた。当然のように唯一の男子であるワチュラロンコーン皇太子が王位を継承し、ラタナコーシン王朝10世王に即位し、1932年に発生した「立憲革命」によって発足した立憲王制は新10世王に引き継がれるだろう。

だが、ここで注目しておきたいのは、憲法に示された国王の権能――国軍を統帥し、師団長以上を任命する――である。加えて王室財産管 理局は、時に「タイ国王は世界の王室で最大の資産家」と報じられるほどの莫大な資産を管理する。


「新国王像」とは?

いま、タイは10年余りも続いたタクシン派対反タクシン派の激しい対立に疲れている。現政権が示した憲法草案の賛否を問う先の国民投票において、タクシン派の牙城であった北タイや東北タイで予想に反して多くの賛成票が投じられたのも、根底には"厭戦気分"があったのだろう。もちろん、「賛成すれば軍事政権は引き下がる」と呼びかけた軍事政権側の工作があったとも伝えられるが。

やはり、タイは長年の対立を乗り越え、新たな社会を創造する時代を迎えるのではなかろうか。あるいは、9世王が国民に示した類まれな威徳が、新しい時代に相応しいタイ社会への変容を押し止どめ、ABCM複合体に対する新興勢力や中間層のジレンマの暴発を防いでいたとも考えられる。であればこそ、9世王の逝去によって、社会が根底から揺さぶられる可能性も否定できそうにない。

いまタイに求められるのは未曽有の危機を如何に管理するかであろうが、その任に当たることのできる全国組織は、やはり国軍以外には考えられそうにない。

新国王が新しい時代に際し、いったい、どのような国王像を国民に向って描き出そうとしているのか。それが明らかになっていないだけに、タイが今後、どのような道をたどることとなるのかは予断を許さない。だが、確実にいえることがある。それは、タイが我が国にとって今後とも"微笑みの国"であり続けることはない、ということだ。

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樋泉克夫

愛知大学教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年より現職。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

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(2016年10月14日「フォーサイト」より転載)