嗚呼、この素晴らしき出会い

人との別れはやがて来る死に向けてのリハーサルのようなものだ。
Young Buddhist monks in Mon Village outside Yangoon, Myanmar
Young Buddhist monks in Mon Village outside Yangoon, Myanmar
Nicos Hadjicostis

人との別れはやがて来る死に向けてのリハーサルのようなものだ。

誰かと別れるときに、おそらくもう二度とこの人物と顔を合わせることはないだろうというような場合は、その人があなたの人生の中で死ぬこととほぼ変わりはない。実際のところ、自分と再び会うことなくやがてその人は遅かれ早かれ亡くなるわけだし、それが人間の宿命なのだからそれはそれで当たり前の考え方と言えるだろう。

この考えを基にすると、「日常の何気ない出会い」というものに対する見方を2通りに分けることができる。

1つ目の最も一般的な考え方は、こういった出会いは特別なものではないとするもので、単に見ず知らずの人の人生と自分の人生が偶然クロスオーバーして短い時間を共有するというだけの事だから、そのような出会いの中に何かしらの意味を見出すことは不毛だということになる。

その人は今後自分の人生から永遠に消え去ってしまうのだから、このひとときに価値や重みといったものはないという考え方は、ひいては他人に対する完全な無関心にもつながってくる。数分前までは全く面識の無かったその人物は、こうして出会った後も相変わらず自分の人生には関係ない、といった捉え方だ。

その一方で、正反対のスタンスを取ることも出来る。前述したように、我々は皆やがてこの世を去る運命なのだから全ての出会いを特別なものとして受け止めるべきではないか、といった考え方だ。別れとは死のようなものだという観点で考えれば、全ての出会いに意味や運命を見出すことができ、この角度から捉えると、死とは一般に信じられているように我々を引き離すものではなく、むしろお互いをより近づけてくれるものだという事実に気付かされる。

そこにあるのは、死という概念が諸行無常の儚さで染められる時に、我々の生命をより強く結びつける力を持つことになるというパラドクス。

私が世界中を転々と旅して回っていた時、旅先で出会った人と短い時間を共にした後で別れる際に、自分は人生の中でこの人と今後もう二度と会うことはないだろうという確信に似た思いをよく持ったものだった。それは私の中でこの人物が死ぬことと変わらず、向こうにとっても私は死んだも同様になるわけで、わずかな記憶だけを残して私たちの存在は互いに相手の人生から消されていく。

この事実に気付かされたとき、私の中に「人と出会うということ」の特別さと、そこにある運命的な要素に対する想いが頭をもたげてきた。この広い地球上に70億人もの人間が暮らしている中で、何10億分の1の確立で目の前にいる人物と出会った奇跡。

しかもこの人は単に70億分の1人であるだけでなく、何100万年という人類の歴史の流れの中で誕生した無数の生命の一つであり、私がその生命と巡り合ったこの瞬間というのは永遠という時間軸上に位置していることになる。

もし、私たちのうちどちらかが50年でも早く生まれていたらこうして出会う確率はゼロに等しかっただろうし、私のこれまでの人生の歩みが不思議な形で絡み合ってこの出会いへと導かれたわけだが、あと10分もすれば私は飛行機の搭乗ゲートへ足を進め、以後この人物とは生涯再会することはないのだ。

こうして、今現在起きている事は宇宙の歴史の1ページに刻まれているのだという事実に目を向けるなら、全ての出会いは特別な意味合いを持つよう思えてくる。

人との出会い-それは偶然の出来事ではなく、それぞれが二度と繰り返されることの無い大切なひととき。

さらにこのように出会いというものを特別な巡り合わせとして経験するということは、相手の持つ独自の個性にも触れることとなり、その結果全ての人は「単に自分の人生の中に現れては消えていく存在」では無くなっていく。

一人ひとりがユニークな存在として造られ、それぞれが独自の資質や性格、行動傾向に考え方といったパターンを持っており、それ故に全ての人が特別な存在なのだ。この点を意識すればするほど、人とのふれあいにおいて相手をより特別な存在として見ることができるようになる。「人に歴史あり」という言葉もあるが、私たちは皆、生まれ育った文化や過去の人生経験といった要素を知らず知らずのうちに反映させて生きているものだから。

もっとも、私は毎日この考えに想いを馳せながら、新しい人に出会うたびにそれを特別な奇跡として意識しているかと言えば決してそうではなく、実際のところは日々の慌ただしさの中でこういった大切な真実は時として忘れられがちになってしまう。

それでも、この概念が自分の中にしっかりと根付いてからは、私の他人に対する接し方が少なからず影響を受けてきているのは間違いない。具体的には、日常生活の中で人と接するのは「何かをするための目的があるから」というような考え方をしなくなってきたのだ。

例えば通りがかりの人に道を尋ねたり、ホテルのフロントで美味しいレストランを教えてもらおうとする時、これまでは単に自分が聞いた事に対する答えをもらうことが目的だったのだが、今は相手を一人の人間として見るようになり、その人物が持つ独特の「人となり」に着目することで、このつかの間の出会いが何か特別なものへと昇華させられることを期待するようになっているのだ。

しかも場合によっては、相手の事をもっと知りたいと思うあまり、知らずのうちに笑顔で軽口をたたいたり冗談を飛ばしたりしながら、当初の目的からは完全に脱線してしまって今その瞬間の交わりを楽しんでいる自分に気付くこともある。こうして何気ない出会いがより深い個人レベルでの交流へと発展していく(まれにそのまま友情が生まれることすらある)とき、私にとってそれは「素晴らしき出会い」へと変わっていく。

死という概念を日常生活の対人関係において当てはめた上でそれをプラスの視点で捉え、全ての出会いは運命に基づいた特別で素晴らしいものだとするときに、我々の他人に対する接し方は劇的に変化することになる。そして出会えた奇跡だけでなく、目の前にいる人物は唯一無二の特別な存在だと意識する姿勢が社会に広く浸透していくならば、この世界に文化や国境を超えた「人類皆兄弟」としての絆が生まれ育っていくはずだと期待せずにいられない。

英語の原文より翻訳(翻訳者:河野英幸)

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