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甦る『経済と道徳の合一』/意味が根本から変わる企業の社会的責任

2014年07月28日 01時08分 JST | 更新 2014年07月28日 01時10分 JST

■CSR(企業の社会的責任)

ベネッセホールディングス社の個人情報漏洩事件は、規模も大きく(2000万件超)、しかも子供の情報という世の親の感情を逆なでする情報の漏洩ということもあり、派遣会社社員の犯罪であることがわかった今でも、CSR(企業の社会的責任)履行の不十分さを問う声がなかなかやまないでいる。まあ、それは当然でもあり、他企業のCSR担当者も、これを他山の石として自社のフンドシを締め直せとばかりに、はっぱをかけられていることだろう。

だが、私はこのCSRや、社会貢献というようなキーワードを聞く度に、正直大変不快な気分になる。もちろん、それらの活動を否定しているのではない。むしろその逆で、企業はもっと社会との関わりを積極的に持つべきと常々考えているつもりなのだが、昨今の大抵の企業の経営トップが語るCSRや社会貢献のお話を聞いていると、理解も表面的だし、世間がうるさいからおつきあいで取り組んでいるという姿勢が見え見えだ。実際ちょっと景気が悪くなると途端に止めてしまう。経営者のフィロソフィー不在と浅ましさが知れるだけだから、そんなくらいなら、偉そうに語ることくらいやめておけばいいのにといつも思わずにはいられない。

 

■志のある経営

これに比べると、『世界を変えよう』とのメッセージを発信し続けた、アップルのスティーブ・ジョブズや、人類が使うすべての情報を集め整理するという壮大な目的を掲げるGoogleの首脳の言のほうが(色々非難される向きもあるし、偽善と罵る人さえいるとはいえ)、ずっとワクワクする。閉塞感漂う世界を本当に変えてくれるのではないかとの期待を抱かせてくれる(くれた)。

日本にもそういう経営者はいた。中でも私は、ソニーの創業者の井深大氏の志の高さには心から敬意を表していたし、同じソニーの創業者の盛田昭夫氏や、松下電器(現パナソニック)の松下幸之助氏なども、あえてCSRだの、社会貢献だの語る必要もない、偉大な経営者だった。かれらの言葉には『実』があったから、本当に心揺さぶられたものだ。

 

■株価至上主義

この真逆の経営の象徴は、いうまでもなく、『リーマンショック』という一般名称にまでなってしまった、破綻したリーマン・ブラザーズ社等に代表される、米国の金融大手だ。これら、米国の投資銀行等が暴れ回っていたころの米国は特に株価至上主義があまねく信奉され、企業は四半期の金銭的な実績だけで評価され、そこには『世界を変える』だの、『水道哲学』*1だのは、入り込む余地とてない感じだった。(もちろん米国の全企業がそうだったとまでいい切るつもりはないが・・)。そのころは日本企業も、グローバル化にいち早く適応するには株価至上主義を受け入れることこそ大事、というようなことを平気でいう、キツネに憑かれたような経営者やら、コンサルタントやらで溢れていた。

 

■寒々とした取り組み

CSRが本当に喧しく騒がれるようになったのはリーマンショック後で、さすがに、株価/利益だけで企業が評価される風潮に多少歯止めがかかりはした。企業のステークホルダーは株主だけではなく、そもそも企業は社会的な存在であるという当たり前のことを見直す風潮も確かにあった。日本にもこの概念はやってきて、企業をおおいに揺さぶった。それどころか、CSRもそうだが、コンプライアンス(法令遵守)の概念は、過剰なほどに日本企業に覆い被さり、企業活動全体を萎縮させさえした。

ところが、日本のほとんどの企業の経営の根幹には、相変わらず、株価/利益等の金銭評価至上主義が当然のものとして居座ってしまっていて、企業はCSR活動をコストとみなし、出来るだけ費用対効果の高いCSRを志向するというような奇怪なことになってしまった。そこには、本当に社会と共生しようとのフィロソフィーがあるわけでもなく、まして、『世界を変えよう』などという高い志など露ほどもない。法律違反で企業を破綻させたり、株価を下げたりせず、それを最少のコストで乗り切り、利益や株価を最大化するのが経営者の役割であり、それ以外の余計なことをいったりやったりするのは、単なる道楽か、スタンドプレーとみなされるような雰囲気さえある。

もちろん、『CSRを標榜しないと、世間や株主もうるさいし、競争に勝つにはしかたがない』という姿勢が透けて見える経営者が尊敬されることはありえない。不祥事を恐れて、恐怖政治に似た管理統制を強いる経営者も同じ穴の狢だ。こういう経営者を頂く企業が一朝不祥事を起こすと、世間は重箱の隅をつつくように、過剰なほど法律違反を責め立てることになる。あまりに寒々とした風景だ。

 

■日本の経営者の言い分

だが、そんな経営者にも言い分はある。結局のところ、企業はどんな経営をしようと高品質で低価格な製品やサービスを提供できれば、それが一番の社会貢献だろう、ということだ。そうやって本業で勝ち残ることで、従業員を食わせ、株主にも配当する。税金も払う。そしてまたユーザーにもよい製品やサービスを提供する。これ以上の社会貢献などなかろうというわけだ。社会貢献だ、哲学だと余計なことに時間を割かずに、本業にコツコツと取り組んで成果を出すことのほうが余程立派なのだと。もちろん、法律違反は直ちに糾弾されるから、法令は遵守する。それでいいじゃないかと。確かに、文化活動とかいいながら、高額の絵画を買い漁ったり、政治に首を突っ込んで本業をおろそかにするような経営者に比べれば、まだましとは言える。

 

■インターネット導入後に必要な経営

しかしながら、ゼロ年代以降にIT/電機市場で起きた出来事は、その『実直』な経営自体、もはや時代遅れであることをはっきりと世に示すことになった。そして、それはCSRの意味と意義を根本的に変えることになった。どういうことだろうか。少し説明が長いが、おつきあいいただきたい。

最も象徴的な出来事は、アップルとソニーの激突で、ソニーが如何に自分たちの製品(ウオークマン)の品質が優れていると主張したところで、製品がスタンドアローンでは勝負にならないことがはっきりした。アップルのiPod、そして、iPhoneのように、ネットワーク志向でなければ、生き残ることができない、それが市場の現実になった。つながらない製品は、購入した瞬間から価値が逓減する一方であるのに対して、つながる製品は、時間とともに価値が増大していく。市場での外部経済による付加価値が連鎖反応的に拡大する構造にあれば、製品単独の価値の何十倍も何百倍も大きくなることはもはや常識だ。

『つながる』というキーワードで、今ではいくつもの角度から『成功の原因』を説明することができる。

アマゾンのキンドル(電子書籍リーダー)は、アマゾンのサービス全体、すなわち膨大なコンテンツ(書籍データ)とユーザーの膨大な発言の蓄積へとつながる入り口(インターフェース)として最適化されている。キンドル本体は、膨張するサービス体験の入り口でしかなく、価格も本体価格は低く設定されている。

サービスの全体構成においては、ユーザーが、そのサービスを通じて、多くのコミュニティや社会的な組織にアクセスし、交流することができるように仕掛けておくことは必須だ。すなわち、『ソーシャルな製品』に進化させる必要がある。そして、何より『想定外の使われ方』がされやすいように設計しておくことが好ましい。そうすれば、想定外に多種多様で多くの顧客を獲得し、製品を起点として設計されたサービスを爆発的に拡大するチャンスをもたらす。

アップルのiPhoneとは若干コンセプトが違うが、ユーザーとの接点だけではなく、出来る限り社外の製品の開発者にもオープンにアクセスし利用できるよう、APIをデザインし、使い易いライセンスとしておけば、想定しなかったような使い方が発見され、機能拡張が可能になる。それを巻き取って、サービス全体で成果を吸収できれば、自社の資源の範囲を大きく超えて、売上げも収益も拡大することが期待できる。

 

■企業への『尊敬』『信頼』『共感』が重要

インターネット導入後は、ネットワーク外部性の意味を理解し、経営に最大限取込んでいくことが出来る企業が勝ち、できない企業は沈むという流れが、まず、IT/電機業界で起きた(多くの日本企業は沈んでしまった)。今後はすべての業種を巻き込んで同様のことが起きていくのは確実だ。そしてその『外部経済』を支えるのは、旧来の貨幣経済ではなく、一種のボランタリー経済(精神の満足を目的として人々が行う経済活動)であり、そこに参集する人々の意欲を喚起し惹きつけるのは、企業に対する、『尊敬』『信頼』『共感』ということになる(やっとここにたどり着いた!)。

21世紀の企業にとって、世界を変え、社会を住み良くするというような、経営者のフィロソフィーや志が最も重要で、収益はそれを実現する為にある、という考え方が『勝ち組』の常識になるだろう。それは、夢想でも絵空事でもない。今は、『社会起業家(社会変革の担い手として、社会の課題を、事業により解決する人)』は、企業経営者の中の特殊な例外かもしれないが、遠からず、社会起業家的なマインドこそ主流になるに違いない。そして、それは資本主義のあり方自体を変えていくことになると思う。(そうなれば、今は企業内の嫌われ者になりがちなCSR担当者は、企業経営の根幹を支える最重要な担当として尊敬されるようになる・・かもしれない。)

 

■若い世代に復活する『経済と道徳の合一』

日本の資本主義の父と尊称された渋沢栄一は、『片手に算盤、片手に論語』と繰り返し語り、『経済と道徳の合一』を説いた。渋沢による論語の解説は次のようにものだったという。

不義や不理やごまかしで富貴を得ようとしても、とうてい得られるものではない。もし何かの僥倖で富貴を得たことがあったとしても、それはあたかも天上の浮雲のごときもので、たちまち一陣の風に吹き散らされてしまうものである


「片手に算盤、片手に論語」(渋沢栄一) - 名言再訪(1) :日本経営倫理士協会

今では見る影もなくなってしまったが、このような精神は、かつては少なからぬ日本企業に実際に生きていた。それは現在の日本企業に復活するだろうか。正直私自身は悲観的だが、その遺伝子は、むしろ年若い世代に受け継がれているように思える。以前に、私のブログでも取り上げた社会学者の古市憲寿氏によれば、内閣府の調査では『社会のために役立ちたい』と考える20代は2013年で66%もいて、調査を開始した1975年以来最高の数値であり、現代の若者は、他人と競争するよりも協調することを好み、身近な仲間たちとの関係を何よりも大事にするのだという。意欲的な若手の『社会起業家』も沢山出てきている。彼らが、もっと自信を持って、自覚的に、かつ活発に活動するようになれば、日本の未来も捨てたものではなさそうだ。

(2014年7月26日「情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)