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原発が参院選の争点になっていない理由

2013年07月03日 00時02分 JST | 更新 2013年09月01日 18時12分 JST

原発問題は、参院選では特に争点となって盛り上がらないまま、再稼働に向けて大きく舵を切るという「最悪」の結果になりそうだ。

実はこの道はいつか来た道なのだ。先月に刊行した拙著『原発論議はなぜ不毛なのか』(中央公論新社)で、脱原発運動が実を結ばないのは、それが「選択できない」からだと書いた。拙著の中では二又に分かれる山道の比喩で説明している。一方の道は先に行くと崖が崩れて通れなくなっているのが見えている。もう一方の道は霧が深くて先が見えない。さて、どの道をゆくか。崖崩れで通行不能の道を敢えて選ぶ者などいない。誰もが霧がかかって先が見えないが、もしかしたら通れるかもしれない道を選ぶだろう。山道であれば当然の選択なのだが、原発立地地元がそれと同じ選択をしている事情に多くの人が思い至らない。

原発立地の殆どが大都市中心、臨海工業都市中心の経済発展から取り残された過疎地だ。人口減少は止まるところを知らず、このままでは地域が破綻してしまう。そんな状況の中で立地地元は原発を選んだ。地元にしても事故の可能性がないとまでは考えてはいない。しかし、事故はあるかもしれないし、もしかしたら起きないかもしれない確率的なリスクだ。それに対して過疎化による破綻のシナリオは確実な危機として眼前に立ちはだかる。だとすれば事故がないかもしれない、あったとしてもそう酷いことにならないで済むかもしれない可能性に地元が賭けることには相応の整合性がある。

脱原発運動が奏功しなかったのは、こうした構図を理解しなかったからだ。何をいうか、今度こそ状況は変わる。福島の事故後に再稼働などありえない、そう思う人も多いのだろう。たとえば地方自治体首長の中にも再稼働に反対の動きがあるではないか、と。しかしそれは多くの場合、首都圏に近く人口が増加していたり、新幹線や高規格道路が建設されて原発以外の産業の発展が望める、相対的に豊かになれた地域の首長の言動だ。それ以外の立地で脱原発の声は決して大きくならない。

これも「いつか来た道」であり、立地地元の選挙では原発の是非が争点にならないことすら多かった。立地地元の人にしても危なっかしい原発を積極的に選ぶわけではない。しかし今の暮らしを安泰のうちに続けたいと願うなら脱原発は選べない。そんな消極的な選択の結果、立地地元の「原子力ムラ」は中央の「原子力ムラ」の国策を受け入れてきた。

再稼働容認の立場を取る自民党のエネルギー政策は、大枠においては311前に時計の針を戻そうとするものに他ならない。それがあからさまになって参院選で論点化されるのを避けようとしているが、原発論議が盛り上がらないのは、そうした自民の姑息さだけのせいではない。脱原発側が「崖が崩れている山道を通過可能にする」、つまり原発を選ばずとも地域が過疎化から脱し、豊かな生活ができる方策を提案できていないからだ。

江藤淳が田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』には、戦後日本の豊かさがなんとなく得られたものではなく、対米従属の構図の中にあることを批評的に顧みる姿勢があり、それが題名の「、」に示されていると述べて絶賛したのを思い出す。311から今回の参院選に至るまでの経過はその逆で、アベノミクスの景気対策の是非こそ争点になるが、原発なしに生き残ることができなかった地方の「貧しさ」の来歴を戦後日本の「豊かさ」と対照させて省みる動きは今のところ見られていない。

脱過疎、脱貧困への具体的な提案を伴わない脱原発の掛け声だけでは立地地元は動けない。こうして「、」が打たれることなく、選びたいわけでもないのに原発を選んでしまう構図が維持され、その構図に甘んじる政党と、その構図を崩せない政党の屈折した共犯関係の中でまともな原発論議なしに「なんとなく原発大国」への道が復活してしまう。そんな懸念を濃厚に感じる。