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霞が関は大丈夫か? その三――異端的論考11

2015年05月18日 15時06分 JST

異端的論考(11):本当に日本はやばいかもしれない:後篇
文科省の言う「考える」教育は現実的か?
‐「考えない」日本の教育/社会と英語の不得手な日本人‐

先回の中編:その二では、戦後70年たった今、現在の省庁はグローバル化する社会の変化についていけず、そのあり方が如何に歪んでいるかについて論じたが、今回は、戦後70年が経つ今、家父長的官僚国家による庇護という名目のもとで国民を子供扱いする管理体制と冷戦構造による米国による過度の優遇という幸運のもとでの高度経済成長に支えられた豊かさの拡大のなかで醸成された一億総国民の中流意識(現在は、格差社会とは言っているが、実態は、天井も下がり、底がそれより速く沈むという一億総貧者に向かっていると言えよう)が定着するなかで、日本人も如何に歪んでしまったかについて論じたい。

  

技術と融合し、加速化する現在のグローバリゼーション(加えて、未曾有の少子超高齢化という予測可能でありながら無策であった政治家と官僚の負の遺産にも見舞われているのが日本である)がもたらす非線形的な動的複雑性という予見性の低い、つまり、過去の延長線上に未来を予測できない環境に適応不全を起こし、不確実性に弱く、「能動的に考えること(自分の明確な意見を持つこと)」を疎んずる日本社会と日本人の劣勢が明確になる中で、文部科学省はお決まりのように、突如、「主体的に考える力」が必要であると声高におっしゃる。

これが、具体的な形になるのは、中央教育審議会大学分科会大学教育部会が、2012年3月に「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」という審議をまとめ (http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/houkoku/1319183.htm)、これを受けて、中央教育審議会が、同年8月に、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」という答申(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm)を取りまとめたことによる。

当然のことながら優秀な官僚の作文としては良いのだが、大学入試センター試験の廃止で日本の大学受験の抱える根本的な問題が解消すると思っているのは文部科学省の官僚とそれに連なる文部科学省お抱えの大学・教育関係者程度でしかないのと同様に、今の日本社会で、この答申よろしく、号令をかけて仕組みを変えれば、日本の大学生が、「主体的に考える」ようになると信じている読者はどのくらいいるであろうか。よく考えれば、「考える」のはそもそも主体なのであって、「能動的」というのであればわかるが、「主体的」に「考える」と言うのはおかしな表現であろう。百歩譲って、「主体的に考える」があるとすれば「客体的に考える」もあるはずであるが、どう考えても、「客体的に考える」は論理的に存在しないのではないか。

文部科学省は、「考える力」というが、「考えること」は「姿勢」であり「習慣」なのであって、「力」ではないはずだ。もし、「考えること」を「力」ととらえるとどのようなことがおこるのか。それは、必要な時に「力」を発揮して、モードを変えて、急に「考える」ことができると言うことになる。そして、その帰結は「考えること」も試験の対象となり、考える「力」という点数評価が始まり、最後は、最近はやりの、なんでも数値目標管理するという安倍政権の単細胞的な対応に行きつくのであろう。そのうちに、文部科学省は「スーパー考える大学」を選定するのではないだろうか。

しかし、実態は、高い評価点を取ることを目的とする、本末転倒した点取りのテクニークの開発とその習得に始終するのであろう。要は、現在の入試と同じである。日本人お得意の手段の目的化である。結果としては、TOEICの点数は高いのだが英語ができないという不思議な現象(これは、点取りテクニークが通用しづらいiBT〈インターネットベース〉に移行する前の、点取りテクニークで点数がかなり上がったPBT〈紙ベース〉時代のTOEFLと同じ現象である)と同じで、「考える力」の点数は高いのに考えられない学生が多く生まれるのであろう。

穿って考えれば、優秀な文部官僚はこのことはわかっているが、「考えること」を「姿勢」であり「習慣」であって「力」でないとすると、文部科学省の権益にならないので、管理と検定の対象となる「力」といっているのではないだろうか。故に「主体的に考える力」という「主体的に」と「力」という二つの空疎な表現を見るまでもなく、文科省の政策のもとでは、大学生が「考える」という「姿勢」や「習慣」をもつようになるのは、到底、望み薄であろう。そして、もしも、文部官僚が「考えること」を「姿勢」や「習慣」と思っていないとすると、これはかなり恐ろしい話である。なぜなら、文部官僚も実は何も「考えていない」からである。

繰り返しになるが、今後、不確実性を高めていくグローバル社会にあって、「能動的に考える」ことは極めて重要になるのだが、「考える」ことは「姿勢」であり「習慣」なので、明日から急に「考える姿勢や習慣」を身につけることはできないのである。この意味で、「考えること」とは、大学生だけに閉じた問題では全くない。

ここで、日本人が戦後、「能動的に考えること(自分の明確な意見を持つこと)」を疎んじて、こぞって「考えない」幸せな国民になった原因を考えてみよう。その原因を知ることからしか、日本人が個人として「考える姿勢と習慣」を身につけるための方策を見いだすことはできないのではないか。

簡単に言えば、「考える姿勢や習慣」を身につかせるためには、まず、健全な「疑念」をもつことが必須なのである。しかし、日本人は、「疑念」を持たないのである。否、日本社会においては「疑念」を持つ必要もなく、また、「疑念」を持つことは悪なのである。以下、その理由を考察してみたい。

まず、第一に、戦前の革新官僚の系譜をひく国家社会主義的色合いの濃い家父長的国家である戦後の日本では、国民は国家に庇護してもらうことと引き換えに幼児であることが求められるので、「疑念」を持つ必要はなく、結果、「考えること」は暗黙裡に禁止され、「考える姿勢や習慣」は身につかないように誘導されているのである。

この延長上に、安倍政権の道徳教育(躾と日本的倫理を意図的に混同する安倍首相)強化がある。道徳教育とは、現在の多様化する社会のなかで、価値観の多元化を拒否し、異質を前提に「考える」という貴重な機会を否定するばかりか、結果、グローバル化による環境変化への個人と社会の適応能力を失わせる。つまり、「考える姿勢と習慣」を身につけるのとは正反対の方向を向いているのである。強力な家父長国家≒国家社会主義を志向した戦前の革新官僚の親玉たる岸信介を祖父に持つ安倍普三の面目躍如である。

次に、リスクを所与に、それを最小化したうえでリスクを取るという「安全」よりも、リスクがない状況であると感じたいリスク回避(リスクは決してなくならないので、正確には、誰かにリスクを押し付けているだけであるのだが)を前提とする「安心」を好む日本社会では、リスクとベネフィットを常に比較して判断するということをしないので、周りの様子は窺うが、日常的に「考える」ことはしない。故に、「考える姿勢や習慣」が身につかないのである。そもそも、自らリスクを取ることを日常的に意識しているからこそ、「考える姿勢や習慣」を身につけるのである。その逆に「安心」であれば、リスクを取らないので、現状に「疑念」を抱かないため、リスク回避の「安心」をリスクテイクの「安全」よりも強調する今の日本社会で、「考えること」を「姿勢」ないしは「習慣」とするのは非常に難しい。「安心」を強調する政治と「安心」を好む日本人の性向を見るに、日本社会は「考える」ではなく、むしろ「考えない」方向に向かっていると言える。繰り返すが、判断してリスクを自ら取ることを排除する「安心」社会に育ち、生活していながら、「考える姿勢と習慣」を身につけることは非常に難しいことを自覚する必要がある。「安心」社会は、「考えていない」ことを自覚させないところが非常に恐ろしいのである。

次に、「考える姿勢や習慣」を身につけさせない日本社会の合意形成のプロセスの問題がある。つまり、各々の意見は本来異なるものであるという前提(他者と異なる、自分の強い意見を持つとは、「考えること」そのものである)から始まらない、衆議一決という予定調和的結果としての全会一致を暗黙の原則、言いかえれば、相手を想定しない独白(モノローグ)の連鎖の展開の結果、各自の意見や考えは、「自ずと」あるしかるべき点に収斂してくる現象を特徴とする「私≒本音」が容易に「我々≒建前」になる日本的なギロンのもとでは相手の顔色は窺っても、「疑念」を持ってはいけないので、「考える姿勢や習慣」は身につかないのである(詳細は『日本人は、なぜ議論できないのか』 第7回:『私』が容易に『我々』になる日本社会:http://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/-_33_b_3854897.htmlを参照)。この日本的なギロンは、「出る杭を打ち、沈む杭を拾う」、退出という選択肢のない帰属が所与の日本の農村社会の生活の知恵(今となっては遺習であるが)である。政治家と官僚の強い家父長的国家観と並んで、日本人が「考えない」ことの責任は、高度成長時代の集団就職で農村部から都市部に出てきて、日本の企業と社会に「疑念」をよしとしない村落共同体の仕組みを持ち込んだ団塊世代にあると言える。高度成長期を通して、日本社会は産業化・近代化する一方で、日本の企業と社会は、村落共同化意識を強めると言ったねじれ現象が進んでいったわけである。

この影響は教育にも及ぶ。小学校から始まる日本の義務教育では、生徒が「疑念」を持つことを「好ましい」としない。もし、生徒が教員に疑念を呈すると明らかに成績評価は下がるであろう。生徒はこうして、「疑念」を持つことを放棄することを学習するのである。これは、高等学校も大学も同じである。いな、企業社会や日常社会でも同じであろう。

当たり前であるが、「考える」為には自分の明確な意見が必要である。しかし、日本の国語教育は、作者は何を考えているかという対象前提の感情移入(読解力と言っているが、それは過度の共感の強制である)を教育の基本としている。この教育では、自分の意見を書くと評価(国語のテストの点数)が悪くなるので、自分の考え≒意見を持つ生徒が育つことを期待することはできない。余談になるが、文章の構造ではなく、試験の点数を取るために、キーワードを追う国語教育では、文章の論理構造を読みとれないので、日本人が論理的思考(階層的意味づけ)に弱いのはうなずける。

また、家庭を考えると、子供の先回りをして、すべて計画してしまう親(主に母親)の存在は、子供が自分から「考える姿勢や習慣」を身につける芽を摘んでいるとしか思えない。

このように、日本人が「考えない」ようになったのには、重層的で根深い問題が存在する。これを反転し、日本人が「考える姿勢と習慣」を手にするのは、容易なことではないということはご理解いただけると思う。

高齢者と違い、グローバル化による社会の急激な変化に敏感な学生に言わせれば、日本の教育と社会とは、

  • 和(同調)とおもんぱかり(これも農村社会の遺習)を教え、積極性を育てず、常に受動的であることが重要であると教え、子供の可能性をつぶすものである
  • 自分の意見を持つことをよしとせず、「自分の考え」を持つことは意味がないと教えるものである
  • 自分の言いたいことを言わせない、つまり、「考えること」を放棄せよと教えるものである
  • 結果、子供は、無意識に自分で自分の可能性を消しているのである。

これが学生の感じている現状である。「疑念」を持つことを教えない、過度の共感をさぐる教育のもとでは個人の意見は生まれない。このような国語をはじめとする日本の教育と社会で「考える姿勢と習慣」を持つ人間が育つわけがなかろう。これから、導き出される示唆は、もし、本当に日本人に「考える姿勢と習慣」を持つことを期待するのであれば、現在の国語教育の廃止がまず第一歩であるということであろう。

考えるまでもないのだが、常に正解は一つであると教え込み、本質を理解する必要はなく、正解に近付く為に一点でも高い点を取るためのテクニークの習得に明け暮れさせ、「考える」ことをさせず、自らの意見を放棄せよという「考えない」人間を育てる日本の教育の精華であるエリート官僚である文部科学省のキャリア官僚に、どうして、「考える姿勢と習慣」を身につける教育制度ができるのか不思議でならない。言い換えれば、「考える