真珠湾攻撃から75年、戒厳令で撮影禁止のなか撮られていた写真から、当時のハワイが明らかになる

「誰もが戒厳令下に置かれ、等しく不当に扱われていました」

1941年12月7日(現地時間)、日本軍による真珠湾攻撃はアメリカと世界の歴史の流れを大きく変えた。

真珠湾攻撃でのアメリカ側の犠牲者は2000人以上。「楽園の島」ハワイのアイデンティティは劇的に変わった。ここに住んでいた人々の日常生活も変わり、ハワイの観光業の息は止まってしまった。

1941年12月7日の真珠湾攻撃の後、炎上している戦艦ウェストバージニアとテネシー。/ PHOTO 12 VIA GETTY IMAGES

この攻撃の数時間後、当時アメリカの準州であったハワイは「戒厳令が敷かれ、ハワイの全島民が戒厳令下に置かれた」と、ホノルル・ビショップ博物館の歴史家デソト・ブラウン氏は述べている。

日系人はどう扱われたのだろうか。

当時ハワイでは人口の37%を日系アメリカ人が占めており、「アメリカ軍が日系アメリカ人全員を収監することは不可能だった」と、ブラウン氏はハフィントンポストUS版に語る。

その代わり、白人系も、ハワイの先住民も、日系も、フィリピン系も、中国系も、ハワイの住民はみな厳しい軍事統制下で生活させられることになった。

「誰もが戒厳令の下で管理され、すべての住民が不当に扱われていました。アメリカ軍は日系人だけを標的にすることはできなかった。なぜなら、日本人はハワイ経済でとても重要な役割を果たしていたのです」と、ブラウン氏は述べる。

それでも日系アメリカ人は事業主、教員、地域社会のリーダーとして、ハワイに長く根ざしてきた。「もし日系人がいなかったら、ハワイ経済は崩壊していただろう」と、ブラウン氏は付け加えた。

当時の新聞の写真に、ホノルルの緊急医療部門で働く2人の日系アメリカ人が写っている。2人は「ハワイにいる誠実な日系アメリカ人の鑑。12月7日の真珠湾攻撃以来、2人は休むことなく勤務を続けている」というキャプションが付けられている。/ BETTMANN VIA GETTY IMAGES

ブラウン氏によると、戒厳令下のハワイの生活は厳しく制限されていたという。真珠湾攻撃の直後、市民は防空壕をつくるため穴を掘ることを軍に強制され、浜辺、ポンプ場、発電設備、官庁等のあらゆる場所に有刺鉄線を設置する命令が下された。

住民たちは、日中は自由に通常の生活をすることができたが、日没後はブラックアウト(灯火管制)を強制された。外出禁止令も出され、住民は夜間外出が禁じられた。

外出を認められていない民間人が数時間でも外出すれば、誰でも銃で撃たれる危険性に直面していた。民間人が公式な軍用目的で、時間外に車の運転が許可されていたとしても、車のヘッドライトを黒く塗ることが要求されていた。

食料も配給制になった。酒類は禁止され、バーは閉鎖。かつて旅行者と祐福な地元住民で栄えた、ワイキキの象徴的なビーチフロントのホテルは、軍に接収され民間人は利用できなくなった。

軍は(日本軍に上陸ポイントを知られるのを避けるために)ハワイの海岸線の写真など、戦争または軍事に関連するもの全ての撮影さえも民間人に禁じた。軍関係者は有刺鉄線、浜辺、軍事基地を写したあらゆる写真を検閲し、没収した。

1941年の真珠湾攻撃の後、有刺鉄線がワイキキビーチとその他の海岸線に設置された。/ BISHOP MUSEUM/DESOTO BROWN

ブラウン氏によると、ハワイでの厳しい軍事統制は、真珠湾攻撃から3年後に終了した。だが、その3年間でハワイは変わってしまったという。

ハワイの住民に対する不当な扱いが日常化したことで、ハワイをアメリカの正式な州として併合する気運が高まった。そして軍はハワイの軍事施設を維持することになった。現在に至るまで、ハワイにはさまざまなアメリカ軍の部隊が駐屯している。

第二次世界大戦と真珠湾攻撃の研究を専門とする歴史家であるブラウン氏は、戒厳令下で撮影禁止であったにも関わらず、ハワイで撮影された多くの画像を収集してきた。

こうした画像の多くは、真珠湾攻撃の75年を記念し、ホノルルのビショップ博物館に展示されている。

公開が禁止された当時の写真を見てみよう。この一連の写真は、フランクリン・ルーズベルト大統領が「将来、恥辱の日として記憶されるだろう」と述べた1941年12月7日を生きた人々が、当時のハワイでどのような生活を送っていたのかを明らかにしている

DeSoto Brown Collection

全ての民間人に課された夜間外出禁止令は、ほぼ戦時中続けられた。夜間外出許可のパスを持っていなければ、民間人は禁止令の後、逮捕される恐れがあった。

DeSoto Brown Collection

ハワイの夜間停電のスケジュール。夜間停電は1941年12月7日に開始され、徐々に緩和されていき、1944年に解除された。

DeSoto Brown Collection

1942年、ホノルルの繁華街のブラックアウトされたレストラン。

DeSoto Brown Collection

このようなピンバッジは、戦争の勝利への献身を示していたが、製造メーカーが手っ取り早く収益を得る手段でもあった。

DeSoto Brown Collection

「真珠湾攻撃を忘れるな」という愛国的なスローガンは、開戦してからの数年で幅広く印刷された。このステッカーには、1941年12月7日の奇襲を象徴して、ヘビの絵が使われてる。

National Archives

ワイキキのロイヤル・ハワイアンホテルの正面に沿って設置された有刺鉄線。このホテルはアメリカ海軍に接収され、戦争の間、軍関係者のためだけに使用された。

DeSoto Brown Collection

第二次世界大戦の間、ワイキキの豪華なロイヤル・ハワイアンホテルは、海軍に接収され、軍関係者にのみ開放されていた。このホテルにあるいココナツグローブ・ガーデンの光景。

DeSoto Brown Collection

7歳以上のハワイ住民全員に、ガスマスクが支給された。このような訓練は、毒ガス攻撃や空襲に備えて実施された。

DeSoto Brown Collection

ハワイの島々のあらゆる民間人は指紋を採取され、このような公式IDカードが発行された。戒厳令下で、このカードは常に携帯しておく必要があった。

ハフィントンポストUS版より翻訳・加筆しました。

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