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ひとりでいられる能力 "The Capacity to Be Alone."

2017年06月12日 16時14分 JST | 更新 2017年06月12日 16時14分 JST

「ひとりでいられる能力」は精神分析家ウィニコットの言葉です。日本では「ひとりでいること」を何か恥ずかしいこと、道徳的に劣ったことのように見なすことがあります。しかしウィニコットはそれとは逆に、「ひとりでいられる能力」を情緒的に成熟していることの現れであると考えました。

乳児期の心の状態は、母子密着の境地と見なされています。乳児は心も体も、一人では生きていくことができません。何らかの不快や苦痛な出来事が生じたとしても、自力で解決することはできませんから、泣き叫んで母(もしくは母親の代理で世話をしてくれる人)を探し求めるしかできないのです。ですから、母が不在になり、自分の世話をしてくれる人がいなくなってしまうことは、とてつもない不安と恐怖を引き起こします。

やがて心身が成熟してくると、物理的には母と同じ場所にいたとしても、情緒的には一人遊びを楽しむことができるようになります。やがて物理的にも母の近くを離れて一人で世界に出ていくのでしょうが、このような情緒的な発達が事前に達成され、「ひとりでいられる能力」が育っている場合には、楽しさやワクワクする感じを持って小冒険に旅立っていくでしょう。

逆に、情緒的な母からの分離・独立が成されていない子どもの場合には、外界への旅立ちは、強い不安を押し殺しての、一か八かの強引な苦役のように感じられるかもしれません。

このような「ひとりでいられる能力」の発達を妨げる状況には、二つが考えられます。

一つは、母(もしくは母親代理)の過保護・過干渉な態度で、物理的に近くにいる限り、子どもを情緒的に「ひとりでいること」にしておくことができません。当然に、物理的にひとりになる前の、子どもの情緒的な「ひとりでいられる能力」の発達は、妨げられることになります。

もう一つの望ましくない状況は、急激に分離や独立を求められ、強すぎる恐怖を体験してしまい、それがトラウマのようになってしまうことです。この場合には、その後に情緒的に関係を持てる他者にしがみつく態度が生じることがあります。

ウィニコットには他に、「十分に良い母親 good enough mother」という有名な言葉があります。これは、完璧であろうとして一生懸命になっているタイプの母親ではありません。おおらかで、少し抜けている所があっても、ポイントは外さずにいてくれるような母親です。このような母親の方が、優等生的な母と比べて、子どもの情緒が「ひとりでいられる能力」を発達させるためには有効なのです。

精神科の臨床場面では、「分離不安」という言葉が使われることがあります。思春期の患者を対象とした臨床を行っていると、母親(あるいはその代理)からの情緒的な分離・独立の作業をやり直しているのだな、と感じられる局面があります。

そのような場合に、「母親に甘え過ぎているのが良くないのだから、力づくにでも離れさせる方がよいのだ」という考え方が、治療を担当する側に強まって、一人暮らしをさせたり寮に入らせたりといった環境調整が行われることがあります。

それには一理ありますが、あまり強引なことを行って一時的に改善したとしても、その後に再度悪化してしまい、以前よりも状態が停滞することがありうるので、注意が必要です。本人に一人暮らしや寮生活を行う能力が身についているのかどうかを事前に見極めておくことは必要でしょう。

分離に伴う寂しさや不安の感情が、子どもの方にも母の方にも強く現れることがあるために、両方の話を丁寧に聞くなどして、情緒的な苦痛が高まり過ぎないようにも配慮します。

一定の割合で、母子の結びつきが強すぎるために、そこに分離をもたらそうとした時の抵抗や拒絶が、極端に強くなることがあります。ある思春期の患者さんを入院させた時に、母の不安が強まり過ぎて「うちの息子は体が元気だから、入院させられて先生たちに人体実験の道具にされているに違いない」というところにまで高まってしまい、驚いたことがありました。

これは極端な例ですが、しかし潜在的には、このような被害妄想的な不安・敵意・猜疑心などが刺激されることがありうるために、この部分を治療的に扱いたい場合には、それなりの体制を整えて行うことが望ましいのです。

筆者の経験では、思春期を超えた青年期以降、場合によっては中年期や老年期の精神医学的な治療の場面でも、この「分離不安」が中心的な問題である場合があります。やはり「うつ病」の診療で、このことを感じることが多いようです。

さすがに中年期以降の症例では、現実の母との分離が問題となることは少ないのですが、「会社」や「組織の中でのポジション」が母親代理のようになっていて、そこに密着したまま心理的な分離独立が果たされていないことが、うつ病の発症や遷延に関係している症例が多々ありました。

具体的には、数カ月の自宅療養を行う場合に、「会社のみんなが一生懸命に働いているのに、自分ひとりが家で休んでいる」ことが、不安でたまらない人が多数いたのでした。情緒的な「ひとりでいられる能力」が育っていないのです。

うつ病は、身体の方から見れば、過労等が誘因となって生じる、脳の一過性の機能低下であると考えられています。しかし関係性の方から見るならば、幼少時期に分離不安の課題を克服できなかった個人が、社会との関係において、密着したところからはじまり、そこに病気によって距離が出現して、さらに新しい関係性を再構築するという経験を通じて、情緒的な発達・成熟の過程のやり直しが求められている状況とも理解できるのです。

筆者が「日本的ナルシシズム」という言葉で指摘するのは、日本社会において、そこで生きる個人や組織の「ひとりでいられる能力」の発達が妨げられやすく、容易に分離不安にとらわれて現実的な判断能力が損なわれてしまう状況のことです。多くの日本人が、未知の場面を楽しんで独立に思考する能力を本来は持っているのです。

しかし集団からの分離不安にとらわれてしまうと、「周囲の意見」からの距離を意識しないで済むポジションの維持を優先するようになります。このような個人が多い社会や集団では、自分たちとは違った主張をする存在を許容することができずに、そこに攻撃を仕掛けて、多数への同一化を強いるか、排除するかのどちらかの力が働きます。いわゆる「同調圧力」と呼ばれているものです。

そして、集団が個人の「ひとりでいられる能力」の発達を妨げることは、結果として社会全体の「ひとりでいる個人」を許容する度量を狭めてしまい、そのことがさらに個人の「ひとりでいられる能力」の発達を妨げる悪循環がくり返されるようになります。その結果として、どんどんと文化が単調で平板になってしまう可能性を否定できません。

しかし誤解がないようにしたいのは、人はそれでもやはり「ひとりで生きていく」ことはできないので、社会に属し、その中で自分の居場所や立場を確保していくことの重要性についてです。

ある種の心理療法的なアプローチでは、依存している社会的権威との対立や実際の分離・独立などを働きかける傾向が強くなることがありますが、そこはケースごとに慎重に対応するべきでしょう。最近の若者の臨床では、組織への過剰な同一化に苦しむ人が明らかに減り、不安定な身分保障しかないままに、不安を抱えて発症する人が増えています。組織には若者への積極的な保護や支援を、そして若者には先行する伝統への適切な敬意を求めることが適切と考えられる場面も増えてきています。

いずれにしても、「ひとりでいたい」というのと、「集団の一員でありたい」という全く矛盾した欲望を同時に持つ複雑な存在が人間です。簡単にまとめることは困難ですが、日本社会においては「ひとりでいたい」傾向が抑圧され、「集団の一員でありたい」という傾向が促進されやすいのは事実でしょう。さらに最近は、その傾向が強まっていると感じます。その意味で、ハフポストの今回の特集が、このバランスが是正されるきっかけになってほしいと願い、拙文を寄稿いたします。


hitori


ハフポスト日本版は、自立した個人の生きかたを特集する企画『#だからひとりが好き』を始めました。

学校や職場などでみんなと一緒でなければいけないという同調圧力に悩んだり、過度にみんなとつながろうとして疲弊したり...。繋がることが奨励され、ひとりで過ごす人は「ぼっち」「非リア」などという言葉とともに、否定的なイメージで語られる風潮もあります。

企画ではみんなと過ごすことと同様に、ひとりで過ごす大切さ(と楽しさ)を伝えていきます。

読者との双方向コミュニケーションを通して「ひとりを肯定する社会」について、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

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