認知症の現場で「当事者の声」はどう扱われるべきか

今回の紀子さんの件で私たちが当惑するのは、それを決めるまでのプロセスがあまりにも性急であったことであり、しかも、私たちばかりでなく、紀子さん本人さえもほとんどそこに関われないままに事が進んでしまったことである。

10月31日、この日はすまいるほーむのみんなにとって忘れられない辛い日となった。増村紀子さん(仮名)がすまいるほーむから他の施設に移ることになったのだ。そして、その日はあまりにも突然にやってきたのだった。

紀子さんの存在

本連載に何度も登場している紀子さん(昭和13年生まれ)は、地元の公営住宅で独り暮らし。レビー小体型認知症や重度の難聴であることもあり、妄想や幻覚が強かったため、生活上に様々な困難を抱えていた。そんな彼女がすまいるほーむに来たのは昨年の7月下旬のこと。すまいるほーむに来たばかりの頃、紀子さんは、新しい環境になかなかなじめず、戸惑うばかりだった。他の利用者さんと交わることもできず、かといってひとりで孤立している状況にも堪えられず、身の置き所のない自分の気持ちをいつももてあましていた。そしてその頃の紀子さんは常に「私どうしていいのかわかりません」という言葉を口にし、困惑の表情をみせていた。今から考えれば、当時の紀子さんは、すまいるほーむになじめず戸惑っていたばかりでなく、「生きる」ということにもどうしていいのかわからないという大きな不安と恐怖のなかで彷徨っていたのかもしれない。

そんな紀子さんも、この日を迎える頃にはすっかりとすまいるほーむに溶け込んでいた。すまいるほーむの一員として居場所を見つけ、心地よく、そして人生を力強く生きているように見えた。そんなふうに紀子さんが安心して過ごせるようになれたのも、何度か訪れた危機的な状況において、根気強く丁寧に関わってくれたスタッフたちのおかげである。紀子さんが極度の緊張や薬の副作用などのために食欲も生きる意欲も低下したときに、看護師の2人は適切な対応をしてくれたし、介護スタッフたちも紀子さんが食べたい、生きたい、と思えるようにいつもそばに寄り添ってくれた。私は本当にすばらしいスタッフに恵まれたとつくづく感激したのだった(連載第10回11回14回参照)。

そして、利用者さんたちが紀子さんの存在を丸ごと受けとめてくれたことも大きい。紀子さんはすまいるほーむに来てからしばらくは、居場所を見つけられず、落ち着いて座っていることもできず、たえず歩き回っていたのだが、そんな紀子さんのことを他の利用者さんたちも怪訝そうに遠目にうかがっていた。利用者さんたちにとって、紀子さんは不可解な存在でしかなかったのである。しかし、端午の節句で自分の思い出の味であるハンバーグを必死になって作る姿を目の当たりにした利用者さんたちは、「あんたのこと認めてるよ」「がんばれ、紀子ちゃん」と労いの言葉をかけたりして、自然と紀子さんをあたたかく見守るようになっていった。紀子さんもその言葉に救われたのだろう、以来生きる自信を取り戻したかのように活き活きと、そして安心してすまいるほーむで過ごすようになっていったのだった(連載第10回11回参照)。

紀子さんはそれまでの不安げな姿からは想像できないほど笑顔を溢れさせ、他の利用者さんたちを気遣ったり、時におどけたり、冗談を言ったりするようになった。紀子さんにとってすまいるほーむは生きる力を得られる場所になっているようだった。それと同時に、利用者さんたちやスタッフたちにとっても紀子さんは大切な存在になり、その優しくて愛らしい姿に、どんなにみんなが励まされ、癒されたかわからない。利用者さん、スタッフたちが自然に互いのことを気遣い、思い合う、家族のような関係が結ばれているすまいるほーむにとって、もはや紀子さんはなくてはならない存在になっていたのであった。

決定のプロセス

ところが、そんな紀子さんとすまいるほーむのみんなとの関係は突然に断ち切られることになった。紀子さんの担当であったケアマネジャー、すまいるほーむの利用以前からずっと関わり続けてきた地域包括支援センターの社会福祉士、紀子さんの財産管理を担っている成年後見人、そして紀子さんの家族との間で紀子さんの今後について話し合った結果、地域の小規模多機能型居宅介護施設に急遽移ることになったのだ。

小規模多機能型居宅介護施設とは、住み慣れた地域での生活を継続することができるように、「通い」を中心に「泊まり」「訪問」の3つのサービスを組み合わせて提供する在宅介護サービスで、平成18年4月の介護保険法の改正によって制度化された地域密着型サービスの1つである。小規模多機能型の特徴としては、「通い」「泊まり」「訪問」の3つのサービスが同じ職員によって提供されること、24時間年中無休であること、また月額定額制であるため介護保険制度における区分支給限度額を超えて自己負担額が増える心配がないことなどが挙げられる。だが一方で、「通い」「泊まり」「訪問」のパッケージ型のサービスであるため、他の事業所の訪問介護やデイサービスを介護保険制度によって利用することはできない仕組みにもなっている。そのため、小規模多機能型の施設へ移るということは、すまいるほーむの利用を止めることを意味するのである。

それでもなおなぜ、紀子さんが小規模多機能型の施設へ移ることになったのか。残念ながら、すまいるほーむのスタッフも、彼女の自宅での暮らしを毎日支えていた訪問介護事業所の提供責任者も、それを決定するまでのプロセスに関われなかったので確かなところはわからないが、後に関係者の方から聞いた話ではこういうことだったようだ。

独り暮らしで認知症の紀子さんは、独りになる自宅では食事ができなかったり、妄想のために眠れなかったりすることも多かった。ケアマネジャーたちはそんな紀子さんの自宅での夜間の過ごし方をことさら心配していたし、また認知症が進行すればいずれは在宅が難しくなり施設入所が必要になるかもしれないという将来の見通しを立てていた。そのために、夜間の見守りのためにも、将来訪れるかもしれない施設入所への予行演習のためにも、「泊まり」ができる、しかも「通い」や「訪問」と同じ顔なじみの職員がケアにあたる小規模多機能型の施設に移った方がよいのではないか、ということでの選択だったようだ。

また、自宅にいるのが不安なのでできるだけすまいるほーむに来ていたいという本人の希望もあって、自宅でひとりで過ごす時間を極力減らすために、紀子さんは定休日である日曜日以外は毎日すまいるほーむを利用していたのだが、それによって発生する利用料金は要介護度2の区分支給限度額を超えており、毎月の自己負担額が大きかったことも遠方で見守る家族を不安にさせていたようなのだ。

確かに、宿泊が必要で、利用金額も抑えたいとなれば、その希望に応えられないすまいるほーむから小規模多機能型の施設へ移るのも仕方がないかもしれない。これまでも、利用者さんが様々な理由で他の施設に移ったり、入所したりすることは度々あったし、別れることがどんなに残念であっても、本人のことを思えばその事実を受け止め、新しい環境で穏やかに過ごされることを祈ってみんなで快く送り出してきたつもりだ。

だが今回の紀子さんの件で私たちが当惑するのは、それを決めるまでのプロセスがあまりにも性急であったことであり、しかも、私たちばかりでなく、紀子さん本人さえもほとんどそこに関われないままに事が進んでしまったことである。

関係者によれば、小規模多機能型の施設を利用するための契約の際にも、紀子さんが混乱したり不安になることを心配して、本人は不在のまま、家族と後見人とケアマネジャーと施設担当者との間で行われたという。では本人に対してどのような説明をしているかというと、小規模多機能型の体験利用をしてもらった上で、「こちらの施設もいいところなので、こちらにも来てくださいね」と伝えたという。つまり、これからどうしたいと思っているのか紀子さんの意向を確認しなかったばかりでなく、すまいるほーむの利用を止めて、小規模多機能型へ移るという事実も、その理由も紀子さん自身には知らされていなかったのである。

もちろん、今回の決定のプロセスに関わった誰もが悪意があって本人を蔑ろにしたわけではないことは私にもわかっている。それぞれが、紀子さんがこれから安心して生活していくための「最善」の方法を模索した上での決定であり、そこに結果的に本人を関わらせなかったのは、本人のためを思った「善意」であるのだろう。

そして、こうしたケースは決して特別なことではないことも、5年以上介護現場に関わってきた私にはよくわかっている。特に認知症の方の場合、本人が全く納得していない、あるいは本人には全く知らされていないままに、「新しい職場に行きましょう」とか「老人会のお手伝いをしてください」とか、騙すようにして施設に連れてくるということもよく行われていることなのである。以前の職場では、後ろめたさに苛まれながらも、「嘘も方便だ。仕方がない」と割り切って、私もそうした嘘を何度となくついてきた。そこで私をかろうじて支えていたのは、介護に疲れ切った家族を少しでも解放してあげたいという切実な思いであり、本人にとっても外の社会との関わりをもった方がいいに違いないという「善意」であった。

しかし、今から思えば、それは本当に本人のためを思ってのことだったのか。私の頭の中には、「認知症の人には自分で自分の将来のことを考えたり判断したりすることはできないだろうし、いくら説明しても理解はできないだろうから、家族や専門的な知識をもった人たちがその方向性を示してあげなくてはならない」という思い込みがあったのではないだろうか。認知症の利用者さんに聞き書きを重ね、その方の人生に寄り添ってきたつもりの私にも、認知症の方に対するそうした偏見がなかったとは言えないのではないか。

「私たち抜きに私たちのことを決めないで」

そんな思いに駆られたのは、認知症の人たちに対する私自身のこれまでの認識を省みなくてはならないある出来事があったからである。それは、NHK制作局、文化・福祉番組部のチーフディレクターである川村雄次さんから、ご自身が制作した「私たち抜きに私たちのことを決めないで―初期認知症と生きる」(平成26年9月20日放送ETV特集)という、スコットランドの認知症ワーキンググループの活動を取材した番組を紹介されたことによる。

川村さんとは昨年日本医学ジャーナリスト協会賞を共に受賞して以来、メールや手紙でやり取りをしてきており、長年、番組制作を通して認知症に取り組んできた川村さんから私はいつも大きな刺激を受けてきた。その彼が手がけた今回の番組に私はとりわけ衝撃を受けたのだった。

そこに映し出されたのは、認知症ワーキンググループに認知症の当事者たちが集い、彼らが中心となって認知症の人たちが置かれた現実や偏見などについて議論している姿であり、そこで話し合われた内容がスコットランド自治政府の認知症政策に反映される仕組みが整えられているという事実である。今では、認知症のことはまず認知症の人に聞いてみる、というのがスコットランドでの政策の基本原理になっているという。認知症の当事者の意見が政府の政策に影響を与えることができるなど、私には想像も及ばないことだったが、それ以前にまず私が驚いたのは、認知症の人たちが認知症についての病識をもち、その上で自分たちを取り巻く環境や状況について意見を言い合い、話し合うことができているということであった。例えば、認知症を研究する際に研究者が心得ておくべき原則は何かを議論したり、独りで外出して支払いに困ったり自分がどこにいるのかわからなくなったときに示すヘルプカードを自分たちで考案したり、もともと「精神の死」という意味だった「dementia(認知症の英語表記)」の是非について議論したり。

これまでも認知症の当事者の立場から積極的に声を上げたオーストラリアのクリスティーン・ブライデンさんの存在や、クリスティーンさんに触発されて日本でも始まった認知症当事者たちの様々な発言や活動があり、それらを私は知らなかったわけではないし、むしろ関心をもって注目してきたつもりだ。けれどどこかで、「彼らは若年性認知症だから」とか「初期の認知症だから」とかと理由づけしたり、一部の「有能な人たち」の活動とみなしたりして、目の前の高齢の認知症の利用者さんたちと結びつけて考えることが私にはできていなかったように思う。「自分が認知症であるという病識をもてないのが(老人性)認知症の特徴」という、介護の世界に入る時に植えつけられた認知症に対する認識も大きく影響していたのかもしれない。

けれど、今回の番組によってはっきりと気づかされたのは、自分たちが不在のまま自分たちのこれからのことが勝手に決められていくことへの認知症の人たちの怒りや絶望がどれだけ深いものかということである。だからこそ彼らは立ち上がり、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」と社会に訴え、具体的に議論をし、提案をしている、その切実さであり、そうせざるを得ないほど社会は認知症の人たちにとって切迫した危機的な状況にあった、ということである。そして、様々な人たちのサポートのもと、自分自身のことや認知症をとりまく社会のことを認知症の人たち自身が考え、提案できるようになったスコットランドでは、認知症の人たちは人生を希望のあるものとして楽しんでいるのである。

一方、最近、日本でも、認知症当事者による日本認知症ワーキンググループが起ち上げられたが、その発起人の1人である藤田和子さんは、番組の中で、こう発言していた。「人なのに、認知症になるとなぜか人として見られなくなってしまっている現実があるんです」。人として見られなくなる現実とは何か。それは、認知症になった途端に、自分のことすら自分で決められないと思われてしまい、「善意」のもとに本人不在のまま様々なことが決められて、まるで赤ん坊のように扱われてしまう、認知症をとりまく今の日本社会の現実のことを言っているのではないか。

その現実に身をさらされて深く傷つき絶望しているのは、若年性であろうが老人性であろうが、あるいは初期であろうが後期であろうが変わらないだろう。人は認知症になっても、人として尊重されて最期まで希望をもって生き続ける権利があるのだ。私は、聞き書きを通して認知症の人のこれまで生きてきた人生やその思いを共にすることが、その方を人として尊重することであり、それがその方の生きる希望に繋がると考えて活動してきた。それは決して間違っていないと思うし、これからも続けていきたいと考えているが、それとともに大切にしなければならないと、この番組を通して改めて思ったことは、認知症の人たちの生きる今を、そしてこれからの人生を、どう尊重し、共に考えていくことができるか、ということである。

「私たち抜きに私たちのことを決めないで」とは、自分たちのことは自分たちに決めさせろ、といった自己決定権を主張しているのではないように思う。そうではなくて、「善意」の下に当事者不在のまま進められてきた決定のプロセスに対するアンチテーゼであり、当事者の自分たちを中心にすえて、共にみんなで考えていってほしい、という切実な願いであり社会に対する必死の呼びかけなのではないかと思うのだ。

番組を見終わった私は、人が人として最期まで希望をもって生きるために、すまいるほーむで私たちは何ができるのか、何をすべきなのか、改めて真剣に考え始めたのだった。

別れの日

紀子さんが小規模多機能型施設へ移ることが決まったとケアマネジャーから知らされたのは、それから1カ月余り後のことだった。認知症の人たちの今を、これからの人生をいかに共に考えていくのか、人が人として生き続けるためにはどうしたらいいのか、を考え続けていた時期であるからなおさら、私は、本人不在のまま事が進められた今回のケースに憤りを感じたし、どうにかならないかと関係者の何人かには意見を述べてみた。しかし、結局は単なるデイサービスの管理者にしかすぎない私の力は全く及ばなかった。

私は思い悩んだ末に、施設を移るという決定は変えられないにしても、せめて、すまいるほーむのみんなと別れることになるという事実は、紀子さん本人としっかりと向き合って伝えなくてはならない、と思った。事実を告げたところで紀子さん自身はそれに納得できないかもしれないし、それによってひどく混乱し動揺してしまうかもしれない。しかし、それを心配して、何も知らせず、何もなかったかのように別れの日をやり過ごしたとしても、急な環境の変化に紀子さんはやはり混乱するだろうし、それ以上に、仲間との別れさえできなかったことに心を痛めるに違いない。そうであれば、今まで共に暮らしてきた仲間との別れを人としてしっかり行える方が、紀子さんがこれからを生きていくためには大切なことなのではないか、と私は思えたのだった。それに、すまいるほーむの利用者さんたちやスタッフにとっても紀子さんは大切な存在だったのだから、すまいるほーむのみんながこの事実を受けとめるためにも、別れの場は必要だと考えたのだ。スタッフたちも私の考えに賛同してくれた。

10月31日は、すまいるほーむの運動会だった。みんなに心置きなく運動会を楽しんでほしいし、紀子さんにもこの運動会がすまいるほーむでの最後の楽しい思い出になればいいという思いがあって、私は運動会が終わるまで別れの事実を紀子さんにも他の利用者さんにも伝えることができなかった。午前中のお弁当作りから始まった運動会の行事も、午後の競技で盛り上がって表彰式で幕を閉じた。みんながパン食い競争で獲得したパンをおやつに頬ばり、少し落ち着いた雰囲気になった頃、私は深呼吸をし、覚悟を決めて紀子さんの隣に座った。そして、筆談用のボードを使って伝えた。

「紀子さんに伝えなければならないことがあります」

「何ですか」

「明日から、別の施設に通うことになりました」

「別の施設というのは、ここが別なところに移動するということですか」

「そうではなくて、この間見学した○○という施設に紀子さんが移るということです」

「○○ってわかりません」

「そうですか......」

「みんなも一緒に移るんですか」

「紀子さんだけです」

「どうして私だけ移らなきゃいけないんですか。私はここがいいです。もうここに来れないんですか」

「ご家族の強い希望で、宿泊ができる施設の方がよいということになりました」

「私、他のところに泊まるのは嫌です。引っ越すんですか」

「引っ越しはしません。お家はそのままで、お家から通います」

「私全然わかりません」

「そうですよね。わからないですよね。ごめんなさい......」

「私、ここに来るのが楽しみなんです。ここがいいです。でも、ここに来ちゃいけないんですか。私、何か悪いことしましたか」

私は思わず言葉に詰まってしまった。唇をかんであふれ出そうになる涙を必死にこらえた。そしてもう1度深呼吸をした。

「紀子さんは何も悪くないです。私たちも紀子さんとずっと一緒にいたいです。でも、ご家族が紀子さんのことをとても心配していて、他の施設に移ることを強く希望されました」

「家族が来たんですか」

「そうですね」

「ごめんなさい、私全然わかりません。どうしていいのかわかりません」

近くで聞いていた他の利用者さんたちもみんな心配そうに見守っている。

「やっとこんなに元気になってきたのに、どうして今急に移らなきゃならないんだろうね」

と、カズさん(仮名)は呟き、考え込んでしまった。私は、動揺する紀子さんの背中をさすりながら、他の利用者さんたちにも正直に向き合った。

「そうですね。今回のことは本当に急に決まりました。私たちも話し合いに加われませんでしたし、紀子さんも知らないままに決まってしまいました。みなさんのおかげで紀子さんもやっと安心して暮らせるようになりましたし、すまいるほーむに来るのが楽しいと言ってくれるようになりました。今が一番幸せそうに見えますから、どうして今じゃなきゃならないんだろうという思いは正直私たちにもあります」

スタッフたちも利用者さんたちの近くで頷いたり、耳の遠い利用者さんにボードで伝えたり、心配する利用者さんに寄り添ったりとそれぞれが精一杯フォローしてくれている。圭子さんが涙を流しながら言った。

「もう会えないの? 淋しいよう」

「そうですね、本当に淋しいですね。でも、きっと1番淋しくて、悲しんでいるのは紀子さんだと思います。ですから、みなさん、紀子さんに一言言葉をかけてあげてください」

みんな口々に紀子さんに言葉をかけた。私はボードに書いてできるだけ正確にみんなの言葉を伝えた。

「紀子ちゃん、元気でね。あんたなら大丈夫だよ」

「ありがとう。元気でね」

「私はあなたに助けられたんだよ。大丈夫だよ。あなたはどこに行ってもみんなとうまくやっていける。頑張れ」

「いつだってまた会えるでしょ」

みんな声をかけ、励ましながら、紀子さんの手を握ったり、さすったりしてくれた。でも、紀子さんは沈黙し、困惑した顔は更に暗くなるばかりだった。

たとえ忘れてしまったとしても

帰りの送迎の時間になっても、紀子さんの混乱と動揺は続いていた。

「私どうしていいかわかりません......」

紀子さんは何度も繰り返しそう訴えていた。私は苦し紛れに言った。

「ともかく明日新しい施設に行ってみましょう。それで、紀子さんが無理だと思うのであればその時にまた考えましょう」

「明日、あなたが一緒に行ってくれるんですか。それならよかった」

一緒に行くとは言わなかったが、それでも紀子さんがそう思って少しは安心してくれたのであれば、それはそれでよかったのかもしれない、と私は勝手に自分を励ました。

送迎車の中で紀子さんは黙って窓の外を眺めていた。私は、紀子さんに別れの事実を伝えたのは本当によかったのか、混乱させただけではないか、別れを伝えるのであればもっと時間をとってじっくりと話をすべきだったのではないか、と思い悩んでいた。それでも、今晩は一晩中でも紀子さんの気持ちが落ち着くまで側にいようという覚悟だけは決めていた。

自宅のある公営住宅の駐車場に着くと、いつも通り私は紀子さんを自宅まで送り、紀子さんもいつも通り、私を家の中へ入るように促した。私はそれに素直にしたがい、こたつに隣り合って座った。そしてボードを取り出し、話を始めた。

「さっきの話をしてもいいですか」

すると紀子さんはこう言った。

「さっきの話って何ですか。運動会のことですか。今日は本当に楽しかったですね」

意外なことに、紀子さんは仲間との別れのことも、明日から他の施設に移るということも覚えていないようだった。自宅までの道行きの中で別れの事実をどこかに置き忘れてしまったのではないか、それほど紀子さんにとって堪えがたい事実だったのではないか。私は敢えて仲間との別れについても、新しい施設に移ることについても伝えるのはやめておこうと思った。今晩は運動会でのみんなとの楽しい思い出の中で安心して眠りについてほしい。たとえ仲間との別れを忘れてしまったとしても、それでもみんなが紀子さんをあたたかく見守っているということが心のどこかに沁み込んで、明日から始まる新たな暮らしに少しでも力を添えるものになってくれればいいと願った。

私は、紀子さんと、運動会の話や紀子さんのハンバーグの話などすまいるほーむでのみんなとの思い出についてひとしきり語り合って、そして「そろそろ帰ります」と伝えた。すると紀子さんは駐車場まで見送りに来てくれて、こう言った。

「明日もいつも通りの時間にお迎えに来てくれるんですよね。楽しみにしています」

私は紀子さんと握手をして、車に乗り込んだ。バックミラーに映る紀子さんはいつまでも手を振っていた。

当事者の今を、これからを共に考えるために

紀子さんとの別れから1週間が経っても、私は今回の出来事をどうにも受けとめられずにいた。紀子さん本人を抜きにして進められてしまった決定。それ自体にも納得できないとともに、私自身はそこに関与していなかったとしても、何かもっとできることがあったのではないか、と考えてみたりした。けれど、何の答えも出ず、自分の無力さに落ち込むばかりだった。

私ばかりではない。利用者さんたちもスタッフも、みんなそれぞれが今回のことをどう受けとめていったらいいのかわからないようだった。特に、97歳のカズさんは、自分の娘と同じ年齢の紀子さんに親しみを感じ可愛がっていたこともあって、彼女がいない淋しさも哀しみも一入(ひとしお)であるようだった。

ある日の午後、カズさんの家に訪問介護に入っているヘルパーさんから、カズさんが紀子さんのことでひどく落ち込んでいるという情報が入った。私は、帰りの送迎を終えてそのままカズさんの自宅へうかがった。既に17時半をまわっており、外は真っ暗で、こんな時間にうかがうのは迷惑かもしれないと思いつつも、カズさんのことが心配だったし、それにカズさんと話をすることで、自分の心の中にあるもやもやとした何かを、自分なりに引き受けることができるような気がしたのであった。

夕食を食べようとしていた時だったが、カズさんは快く私を迎え入れてくれた。カズさんは、こう始めた。

「六車さんね、私、紀子さんのこと、娘みたいに思ってきたでしょ。若い彼女を見ているだけで私は元気をもらっていたの。私もがんばって生きようって。だから、彼女がいなくなっちゃうとね、何だかね......」

「そうですね、私も本当に淋しいです。ぽっかり穴が開いたような」

「でもね、私、何だか納得できないのよね。他人が納得できないなんて言うのもおかしいけれど。もっと何かいい方法はなかったのかな、って思ってしまって。紀子さんもせっかくすまいるほーむに馴染んできたしね。また新しいところで新しい仲間を作るのは大変なのよ、年をとると特にね」

カズさんは、ただ淋しさに堪えかねて落ち込んでばかりいるのではなかった。今回の出来事の理不尽さをわが身のこととして受けとめていたのである。

「カズさんの言う通りだと思います。紀子さんがすまいるほーむでやっと築いた関係が紀子さんの意思ではないところで断ち切られてしまったのは、そしてそれに対して何の配慮もなかったのは私もおかしなことだと思っています。でも何もできなくて」

「家族には家族の考えがあると思うの。ケアマネさんにもね。だから、本人がどう考えるのかということと、家族やケアマネさんたちがどう考えるのかっていうこととをどう折り合いをつけるかっていうことでしょ。どっちがいいとも言えないし、難しいことだとは思うけど」

気づくと、カズさんと私は、利用者さんとスタッフとの関係を越えて、今回の出来事に立ち会った者同士として、今回の出来事について、そして本人の意思をどのように尊重するのか、ということについて真剣に話し合っていた。かつて27年間もボランティア活動をしながら、社会のかかえる矛盾に敏感に反応し、時折自身の意見を地元の新聞などに投稿してきたカズさんは、更にこんな本音も語ってくれた。

「六車さん、こんな年寄りがこんなことを言うのはおかしいと思うかもしれないけれど、年寄りには年寄りにしかわからないことがあって、政治をする人たちはそういう人たちの声にも耳を傾けなければだめだと思うの」

「そうですね、確かに、例えば介護保険制度について決める時だって、実際にそこで介護を受ける利用者さんたちの声をちゃんと聞いているかっていうと、全然そんなことしていないですもんね」

「そうなの」

「カズさん、昔みたいにカズさんの意見を新聞とかどこかに載せて伝えましょうよ。当事者の声として。私お手伝いしますから」

「そうねえ。でもこんな年寄りがって思われちゃうね」

カズさんは、少し躊躇していた。

「そんなことないです。そうそう、カズさん、例えば、スコットランドでは、認知症の当事者たちが集まって議論する認知症ワーキンググループっていうのがあって、そこでは政府に対していろんな提言をしているそうですよ。日本でも、認知症ワーキンググループができました。認知症の人たちが当事者の声を上げているんです」

「へえ、そうなの」

カズさんが身を乗り出してきた。私もだんだんと前向きになってきてこんな提案をしてみた。

「じゃあ、すまいるほーむをそういうところにしましょう。介護を受ける当事者の人たちが、行政とか社会に対して、こうしてほしいとか、こうなんだとか意見を発信していきましょう」

「それいいわね。でも市長とか政治家とかに直接訴えても相手にされないかもしれないわね」

「そうですね。そうだ、幸いすまいるほーむには新聞社とかテレビ局とかラジオ局とか出版社とか、いろんなメディアの人たちが取材に来たり、関心をもってくれたりしてくれているから、彼らに働きかけて、みんなの意見を発信できる場を作りましょう。どうですカズさん」

「面白そうだね」

「静枝さんやゑみ子さんもきっと言いたいこといっぱいありますよ」

「そうそう」

2人とも、哀しみから少しだけ解放されて、大きな目標を掲げてワクワクとしていた。認知症の人ばかりでなく、介護を受ける当事者の声を尊重し、彼らの今を、これからを共に考えていく、すまいるほーむなりの方法が見つかったような、そんな気がした。カズさんの家を後にした私は、久しぶりに夜空を見上げた。やらなきゃならないことがまだまだたくさんある。

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六車由実

1970年静岡県生まれ。民俗研究者。デイサービス「すまいるほーむ」管理者・生活相談員。社会福祉士。介護福祉士。2008年に東北芸術工科大学准教授を退職し、静岡県東部地区の特別養護老人ホームの介護職員に転職。2012年10月から現職。「介護民俗学」を提唱し実践する。著書に『神、人を喰う』(第25回サントリー学芸賞受賞)、『驚きの介護民俗学』(第20回旅の文化奨励賞受賞、第2回日本医学ジャーナリスト協会賞大賞受賞)。

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(2014年12月6日フォーサイトより転載)

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