BLOG

日本初開催「米シニアツアー」勝者が残した「言葉」--舩越園子

JAL選手権は、日本のゴルフの国際化の第一歩だった

2017年09月19日 12時44分 JST | 更新 2017年09月19日 12時44分 JST

「成田ゴルフ倶楽部」(千葉県)が舞台となった「JAL選手権」は、米シニアのチャンピオンズツアーが日本で初開催された新規大会として内外から大きな注目を集め、コリン・モンゴメリーの優勝で幕を閉じた。

昔からのゴルフファンなら、"モンティ"のこれまでの歩みを、ある程度はご存じだと思う。若かりしころの彼は、よく顔を真っ赤にして怒っていた。だから米国のゴルフファンの間では"赤鬼"などと陰口を叩かれること、しばしばだった。

そんなモンティが54歳にして初めて足を踏み入れた日本の土の上で、優勝トロフィーを掲げ、弾けるような笑顔を見せた。その姿を眺めながら、ゴルフの世界っていいものだなあと感じた人は、きっと多かったはずだ。

野次の標的に

スコットランド出身のモンティは、欧州ツアーで通算31勝を挙げた実力者。同ツアーで賞金王に8度も輝いた史上最高記録の持ち主でもある。母国では、まさにゴルフの神様と崇められるスーパースターだった。

しかし、米国では、どうしても勝てなかった。何度も優勝争いに絡んだが、レギュラー大会でも、メジャー4大会でも、ついに1勝もできなかった。

メジャー優勝に最もにじり寄ったのは、「コングレッショナルCC」(メリーランド州)で開催された1997年の「全米オープン」だった。優勝争いはアーニー・エルス、トム・レーマン、モンティの三つ巴となり、勝利を挙げたのはエルスだった。

悲願のメジャータイトルを掴み損なったモンティは、駆け寄った欧米メディアから逃げるように遠ざかり、18番グリーンの陰で肩を震わせながら泣いていた。

当時の米ゴルフ界には、欧州への対抗意識が溢れ返っていた。それは、おそらくは1980年代の米ツアーが欧州勢の黄金時代となったことの裏返しだったのだと思う。

喜怒哀楽が激しく、真っ赤になって怒るモンティは、そのリアクションが面白いと思われてしまったのだろう。「欧州では勝ててもアメリカでは勝てないモンティ」と揶揄され、米国ギャラリーの野次の標的にされていた。

「べスページ」(ニューヨーク州)が舞台となった2002年の全米オープンでは、口の悪いニューヨーカーたちによるモンティへの野次がピークに達するのではないかと予想され、どこからともなく「Be Nice to Monty(モンティに優しくね)」と記した大量のバッジが出現し、会場内で配られた。

だが、丸くて真っ赤なブリキのバッジは「激怒したモンティの顔をイメージして作られたNY式のジョークだよ」なんて声まで聞こえてきた。

聖地での激闘

その後、モンティの離婚が報じられ、同時に奇妙な記事も出回った。

「自暴自棄になったモンティは、欧州ツアーで出場する全試合に何十時間でもハンドルを握って自分の車で行くと公言した」

肝心のゴルフそのものも不調に陥っていたモンティの精神状態を疑い、「追い詰められている」と報じた記事も見受けられた。

そんな経緯を経て42歳で迎えた2005年の「全英オープン」は、ある意味、モンティにとっての再起の大会になった。

聖地「セント・アンドリュース・オールドコース」での最終日。悲願のメジャー優勝を目指したモンティは、首位を走るタイガー・ウッズに1打差まで迫った。しかし、11番と13番のボギーでモンティの勢いは止まり、ウッズとの差は3打、そして4打へと開いていった。

モンティの夢は消え、優勝はできず、2位になった。しかし、この2位はモンティの悔し涙を誘うものではなかった。

「私にとって、実に8年ぶりのメジャーでの優勝争いだった。そんなに長い歳月が流れていたことを私はすっかり忘れていたけど、今日はタイガーを相手にいいプレーができて、私の優勝の可能性がなくなってからもギャラリーが私を応援し続けてくれたことが、何より、うれしかった。だから、この2位には何の後悔も陰りもない」

素晴らしい舞台の上で、人々に支えられ、押し上げられて2位になったからこそ、昔のように再び世界のトップレベルへ戻れるような気がするのだと、モンティは爽やかな笑顔で静かに語った。

人生の厳しさ、悲哀、喜び

不思議なことに、50歳になった2013年からシニアのチャンピオンズツアーで戦い始めたモンティは、アメリカの土の上で次々に勝利を収め始めた。

2014年には、悲願だったメジャータイトル「全米シニアプロ」、「全米シニアオープン」を次々に制覇。2015年には全米シニアプロを再び制し、大会2連覇も達成。

そして、メジャー3勝を含む米チャンピオンズツアー通算4勝の「強いシニア」として初来日し、日本初開催のJAL選手権を制して通算5勝目を挙げた。

「この優勝は大きいぞ」

そう言って笑顔を輝かせたモンティ。その笑顔に至るまでには、母国ではヒーローでありながら米国ではヒール役にされた長い歳月とたくさんの喜怒哀楽があった。

その経緯を、たとえ断片的であれ知っていた昔からのゴルフファンは、モンティの笑顔に秘められた人生の厳しさや悲哀、喜びを感じ取り、共感を覚えたのではないだろうか。

昔の経緯を知らない若いゴルフファンや子供たちは、モンティを眺めたことで、シニアになっても元気で、そして本気でゴルフの闘いに挑む素晴らしさ、勝利の笑顔のカッコ良さを、純粋に感じ取ったのではないだろうか。

内側からの国際化

注目したいのは、優勝したモンティが口にした賛辞の言葉だ。もちろん勝った喜びで、多少なりとも社交辞令が含まれていることは想像に難くない。

だが、それを差し引いても、闘いの舞台となった成田ゴルフ倶楽部のコースの状態、コースメンテナンスを彼が絶賛したことの意義は大きかったと私は思うのだ。

「このグリーンは、私がこれまでプロとして30年間プレーしてきたどのコースのグリーンより素晴らしかった」

「この大会の成功は、米チャンピオンズツアーのみならず、米ツアーの大会をここ日本で開催できることを十分に示している」

セント・アンドリュースでギャラリーのエールに励まされ、ゴルフと人と人生の素晴らしさを知ったモンティだからこそ、日本で初開催された米チャンピオンズツアーの大会で、彼は自身の勝利の喜びはさておいて、日本のゴルフ界へ温かいエールを贈ったのだ。

欧米の選手が優勝スピーチで大会やコース、スタッフに感謝の言葉を述べるのは、いわばお決まりのスタイルではある。

だが、モンティが口にした賛辞は、形式的な言葉ではなく、いろんな浮沈を経験してきた彼の心の底から湧き出た日本のゴルフ界への激励だったと感じられた。

日本のゴルフの国際化を考えるとき、日本人が世界へ出ていって挑むことこそが国際化だと思われがちである。実際、これまでは、そうしなければ世界を見ることは難しかった。

だが、日本には世界には負けない優れた技術力とマンパワーがある。日本のゴルフ界もそうであることを、モンティはプロゴルファーとして肌で感じ取り、それを言葉にしてくれたのだ。

彼のその言葉を素直に受け止め、励みにして、これからは世界を日本に持ってきて、日本の内側から国際化を図ることも同時に進めていくべきではないだろうか。

JAL選手権は、その第一歩だった。


舩越園子 在米ゴルフジャーナリスト。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。
関連記事 (2017年9月13日フォーサイトより転載)