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韓国は、「謝罪しない」超法規的指導者が「無知な」国民を救う構図になっている

2014年07月09日 00時53分 JST | 更新 2014年09月07日 18時12分 JST
한겨레

■キリスト教新保守主義の登場とエリート主義信仰

「日本の植民地支配は神の意思だった」と発言した文昌克(ムンチャングク)氏が、韓国の首相候補を辞退した。辞退を表明した記者会見の演説、すなわち彼が残した長い訓戒説教は、これまでの大騒ぎがすべて「無知な」大衆と、大衆に迎合する勢力が世を惑わせた結果だと宣言している。この説教の最後で、文氏は言う。「私を呼んでいただいた方も、私を辞めさせる方もあの方です」。文氏は救世主(メシア)に姿を変えた朴槿恵大統領の「使徒」だったことを宣言したのだ。だから「神の意思」を推し量ることができない無知な者どもをあざけるしかない。とにかく「使徒」は消えた。そして辞任と前後して、この使徒の支持者たちの声が大きくなっている。

一部大教会の牧師ら、多くのプロテスタント指導者も加勢した。文氏が熱心なプロテスタント信者なうえ、問題の発言が教会での講演で、その内容も「日本の植民地支配と朝鮮戦争が神の意思」だったという、プロテスタント特有の表現であり、指導者らが彼をかばうのは十分予想できることだ。

■謝罪できない者たちの信仰、メシア主義

しかし、彼らの言う通り、文氏への批判が全体の論旨から一部を切り取り、ことさらに問題視して罵倒したのだとしても、文氏の表現は行きすぎていた。例に挙げた出来事が、自らにさほど痛みを伴っていないように聞こえるのだ。(韓国キリスト教教会協議会の会長などを歴任した)キム・サムファン牧師が先日「セウォル号の沈没は、神様が国民を悔い改めさせるために機会を与えたのだ」と発言したように。被害者の痛みを考慮しない言葉は、真意が何であれ慎まなければならない。ましてや民族の痛みとして刻まれた出来事を、あのように語るということは、当然謝罪すべきことだ。

しかし、謝罪はなかった。辞退の瞬間も文氏は謝罪しなかった。彼をかばったキリスト教指導者たちも、謝罪すべきとは言わなかった。ある神学者などは「神正論」(神が正しい存在であることを主張する論)を理解できない国民のせいにした。神正論と解釈される無数のテキストを一言で定義するのは難いが、少なくとも聖書の神正論は、国家が滅びて民衆が帝国の奴隷になり、自分たちの神が敵の神に敗北したという屈辱と絶望に民衆が打ちひしがれているとき、実はそれが私たちを反省させるために神が仕組んだことなのだという解釈を指す神学的概念だ。そこには慰めがあり、反戦の歴史解釈がある。しかし被害者への批判はない。神正論を理解していなかったのはいったい誰なのか。

ここで私たちはまた見慣れた状況に直面した。彼らは謝罪しないということだ。さらに国民を「無知な者」と評するのも、どこかで見た光景だ。そうした意味でプロテスタントと現政権の指導者は似ている。

ここで、韓国が通貨危機に陥っていた1997年に「朴正熙メシア論」を掲げた3人が思い浮かぶ。金正濂(キム・ジョンリョム、政治家)、趙甲済(チョ・ガプチェ、ジャーナリスト)、二人化(イ・インファ、評論家)だ。彼らはみな「脆弱な政権」が危機を生んだという歴史認識から、強力な統治者・朴正煕を今の世に呼び起こす。彼らが見る今は「非常事態」だ。「無知な」国民は自らを救いようがない。まして非常事態なのだから特別な指導者が必要だ。それがまさに朴正熙なのだ。彼らにとって朴正熙はメシア、すなわち超法規的存在だ。

彼らによれば、民主主義など不可能だ。国民が無知だからだ。だから超法規的指導者が求められる。ところでこのような論理は、現政権の言動にもしばしば垣間見える。国民を無知な者として誹謗するのも、法治を強調しながら法律を統制しようとする統治者の姿も、しばしば見受けられる。現政権発足後に目立って増えた光景だ。そんな超法規的指導者がどうして謝罪などできるだろう。

■新たなメシア主義者の出現、エリート聖霊派たち

それは政治だけの現象ではない。大教会では長い間の慣習のようだ。韓国で大教会となる第一条件は、1人のカリスマ的指導者の存在だ。その指導者が教会の資源を独占し、信者拡大のために集中投資した結果、大型化に成功したのだ。もちろんそんな組織は大教会だけではないが、大教会は例外なくそうだ。少なくとも1960~70年代のリーダーはそうだ。

最近、成長が停滞した状況で、大教会の指導者たちの醜聞が絶えない。一部は権力を世襲しようとしたり、すでに世襲を断行していたり、不正と背任の疑いを受けたりする人々も少なくない。さらに一部は性的暴行の容疑者でもある。さらに暴言、不適切な行動、人種的・宗教的排他主義や極右的行動が問題になることもある。このような状況で教会のイメージは極端に失墜した。

一方で最近、一部の教会で新たな拡大主義が台頭している。その中でも、文昌克氏が長老を務めるオンヌリ教会の拡大主義は、キリスト教界にセンセーションを巻き起こした。いわゆる「新使徒運動」という、アメリカ発の新しい「聖霊運動」的な拡大主義の韓国版はここを震源地としている。

過去の聖霊運動が、主に都市化によって増えた下級階層の間で火のように広がっていったのに対し、この最新版の聖霊運動は都市的な現象でありながら、中・上級階層的な特性を持つ。しかも、すべてそうだと断定するわけにはいかないが、過去の現象よりも理念的に明確な傾向がある。いわゆる新保守主義と親和的なのだ。

ここで注意すべきはこの運動が、聖書時代のように、奇跡を行って予言を語る「使徒」の活躍が今も続くと主張している点だ。なお、過去の聖霊運動が主に正規教育から疎外された下級階層出身の指導者を中心になされたのに対し、新しい聖霊運動は最上位のエリート層の聖職者と、一般信徒の指導者が中心という点で独特だ。

とにかく、キリスト教のこれら二つの聖霊運動的な拡大主義は、特権的指導者の超法規的役割を強調する。指導者は大衆の無知を悟らせる者だ。そのような信仰に謝罪はふさわしくない。こんな教会の長老であり、こんな政府の首相候補として、文氏は実にふさわしい。市民にとってはふさわしくないのだが。

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