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報ステ古賀古舘バトルについての私見(エイプリルフールではない)

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古賀茂明さんと古舘伊知郎さんが番組中に「バトル」を繰り広げた3月27日の報道ステーションを観ながら、こんなツイートをつぶやいた。言いたかったのは要するにこういうことだ。

コメンテーターという立場としては、古賀さんが行ったことは、テレビで自分の考えを述べる機会を有している者としての責任を放棄するものであり、視聴者への裏切りではなかったかと思う。

僕個人の考えとしては、コメンテーターは番組のパーツに過ぎない。

ひとつのニュース番組や情報番組がパッケージとして情報を提供するなかで、観ている人がニュースについて自分の意見を形成するために必要な視点や知見、異なる考え、映像やスタジオでのプレゼンではカバーされない情報などを、できるだけ数多くの種類、提供するためにスタジオに座っている。

世の中のほとんどすべてのことは白黒に単純化できないグレーなので、ニュースについての判断材料はできるだけ幅広く、さまざまなほうがいい。

なのでスタジオにいる5人のうち4人が「右」と言ったら、僕は個人的には「右かな」と思っていてもコメントでは「左」と言う。

そのための準備として、どんな分野でもニュースについて自分なりの取材やリサーチをして番組に臨む。ネタによってはかなりの手間と時間がかかるが、仕方がない。ニュースについてコメントする機会を与えられている者が、観ている人に対して果たすべき義務だから。

報道ステーションの場合、ゲストコメンテーターに与えられるコメント時間が他の番組の平均より長く、トークの要素にもウエイトを置いたつくりになっている。それでも、話の核がニュースについての検証や論説であり、視聴者がそれを期待していることに変わりはない。

実際、翌週月曜日(30日)の放送では、新コメンテーターの憲法学者・木村草太さんが、在沖米軍基地の辺野古移設の問題について、憲法95条の特別法設置規定をからめたユニークで鋭い指摘をおこなっていた。

あの時、コメンテーターとしての古賀さんが第一に務めるべきことはそのように、古舘さんからコメントを振られたイエメンや中東の情勢について、集団的自衛権の問題について、視聴者が刺激を受けるような新しい視点や異論、異見を提示することだった。

政府の原発輸出政策、武器輸出三原則をめぐる動き、カジノ法案を批判するのであれば、脈絡もなくその三つをひっくるめて印象論的に語るのではなく、それら一つひとつが日本の人のためにならないのかを、客観的なデータや比較検証をもとに説明し、木村さんのように別なアイデアを持ち出したりしてほしかった。

古賀さんは、与えられた時間をそのために使わなかった。

「官邸の圧力」のプルーフはどこに


もちろん、言いたいことを言うのもコメンテーターのだいじな仕事ではある。言いたいことを言う「権利」もある。ときには、番組の流れをぶった切ってでも。

ただし、その権利を行使する以上は、どんな内容をどのように言うのか、厳しく問われる覚悟がいる。

スタジオで古賀氏が語った内容は、放送を観たかぎりでは、勇気と言うよりは蛮勇と言わざるを得ない。

自らの番組降板やプロデューサーの「更迭」について、名指しでテレビ局や制作プロダクションの幹部に責任を求め、「官邸の圧力」との因果を糾弾する。

そこまでするのであれば、少なくとも視聴者が「なるほど、そうかもしれないな」と感じるような客観的な根拠や論拠を、少しでも示すべきだったと思う。

今まで信頼し合ってきた(ように見えた)キャスターとの楽屋での会話を、ひそかに録音しておくほど取材スキルを磨いた古賀さんが、「官邸の圧力」とまで断言することの決定的な証拠をつかんでいないはずがない。それをスタジオで提示しないのでは、私的な感情にもとづいた言いがかりと解釈されても仕方がない。

心配なのは、今回のことが安倍政権に、メディアに対するプレッシャーをさらに強める口実を与えてしまうのではないか、ということだ。

歴史を振り返るまでもなく、為政者がメディア対策に力を注ぐのは当然だが、安倍政権の場合、総理がみずから特定の新聞や記事、特定のテレビ局や番組内の特定部分をピンポイントで非難したり、個別の報道について官房長官がいちいち批判的なコメントをしたり、フェイスブックで批判的なコメントを締め出しているとの疑惑をもたれたりと、批判に対して偏執的なまでに攻撃的な反応を示す点が目立っている。

その後ろには、みずからとメディアを対等でフラットな関係と位置づける考え方が見え隠れする。

しかし権力と権能の行使をチェックされる立場の政権とメディアはフラットな関係ではないし、許認可権などももつ政府とメディアは対等でもない。「言論の自由」を尊重する気持ちがあるのであれば、フェアな批判はすすんで甘受する義務が為政者側にはある。

まともな脳みそをもつ為政者であれば、あからさまに「官邸の圧力」を振るったりはしない。メディアやメディアで発言する人が萎縮したり、自主規制したりするようなムードを少しずつ醸成する。

そうした狡猾で巧妙な対策に対抗するには、メディアの側にもしたたかさと慎重さが必要だ。根拠を示すことなしに人事の処遇を「圧力」と断じる陰謀論的な批判は、それみたことかと批判する理由を与えてしまいかねない。

今回のことを受けて、以前より萎縮している、なんらかの自主規制をおこないはじめたのではないかと視聴者に疑われることがないようにできるかどうかが、テレビ局には問われている。

もちっとユーモアで対抗したい


政権のメディア対策にどう対抗していくか、いろいろなやり方はあると思うけれど、個人的には、ユーモアや風刺をうまく用いた政治批評がひとつ有効ではないかなと思ったりする。

日本にも古くは宮武外骨、昭和には雑誌FOCUSのマッド・アマノさんの「狂告の時代」があったし、今も新聞の風刺マンガやコントグループの「ザ・ニュースペーパー」がいる。

けれど、政治家をコケにしまくるニュースパロディ番組の司会を長年務めたコメディアンのジョン・スチュアートがびっくりするほどの人気と影響力をもつアメリカや、BBCがどギツい政治風刺をするイギリス、件のシャルリ・エブドがあるフランスなどに比べると、今の日本の状況はちょっとさみしい。

議会での秀逸なヤジと同様、すぐれた政治風刺は笑わせてなごませながら、本質的な問題点を毒針のようにチクッと刺す。マジ切れする対象者を大人げない存在にみせてしまう。

僕なりにしばしばトライはしているのだが、センスが足りないせいか、なかなかむずかしい。最近では安倍総理の国会での「日教組」発言が話題になったときに出演番組でおこなってみたが、スベッてしまった(伝わった人には伝わったようだけれど)。

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以下は補足、というか蛇足。

今回の報道ステーション、番組としては「大成功」だったのではないかと思う。テレビの特質、優位性はそのライブ性にある。予定調和が崩れたとき、観る者に与えるカタルシスこそが究極の媒体価値であると言ってもいい。

災害現場からの中継であれ、スポーツの大逆転劇であれ、あるいは放送事故であれ、テレビがメディアとして最も光り輝くのは「起きるはずのない出来事」を数百万の視聴者が共有する瞬間だ。

そのハプニング性によって出来事には特別な意味づけがなされ、なんやかんやと話題になる。テレビ番組というコンテンツへの(無責任な)期待をわかせたという意味でも、言論の自由についての(乱暴な)問題提起になったという意味でも、他局や他番組のスタッフはうらやみを禁じ得ないだろう。

キャスターと、そのパートナーとして長らく名コンビネーションを披露してきたコメンテーターの、感情をむき出しにしてのバトルが面白くないはずがない。二人のやり取りを途中で打ち切らせたり、突然CMに切り替えたりしなかった制作サイドの「勇気ある演出(というか放置)」には頭が下がる。

もちろん、テレビと視聴者の関係自体にもたらすダメージが大きかったら、その罪はあまりにも重いのだが。


(2015年4月1日「竹田圭吾blog.」より転載)
 

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