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幹細胞とは何か?(6)iPS細胞の登場

2015年12月27日 16時31分 JST | 更新 2016年12月24日 19時12分 JST

前回は、「セラピューティック・クローニング」を目指して行なわれていた研究が「ファン・ウソク事件」というたいへんな惨事を引き起こしてしまったことを紹介しました。今回は、まるで通常のES細胞やセラピューティック・クローニングの弱点を克服するかのように登場してきた「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」についてお話しします。

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ES細胞には、主に2つの大きな問題があります。1つは、1人の人間になる可能性のある胚を壊さなければ得られない、という生命倫理的な問題です。もう1つは、たとえES細胞から患者を治療できるかもしれない細胞をつくることができたとしても、その遺伝情報は患者のものとは異なるので免疫機構による拒絶反応が起こるだろう、という医療技術的な問題です。

後者を克服するために、クローン技術を組み合わせることによって患者と同じ遺伝情報を持つES細胞と移植用細胞をつくろうという仮説(アイディア)が「セラピューティック・クローニング」でした。ところがこの仮説は当初から、核移植の成功率はきわめて低いため大量の卵子を必要とする、という疑問が提示されていました。卵子の採取には排卵誘発剤を必要とするため、女性にたいへんな負担をかけることになります。「ファン・ウソク事件」が起きてしまって、その通りであることが目の当たりにされ、この仮説はスタート地点に戻りました。

一方、山中伸弥・現京都大学iPS細胞研究所所長は、胚ではなく体細胞を使ってES細胞のような細胞をつくる方法を模索していたといいます。つまり、胚からいちど分化した体細胞を、受精卵やES細胞のような状態に戻すこと、つまり「初期化」しようと考えていたのです。

山中は、ES細胞で働いている遺伝子のなかに体細胞を初期化する因子があると考え、データベースなどを駆使し、24個に候補を絞りました。24個の遺伝子すべてを体細胞(皮膚細胞)に導入すると、ES細胞に似たものができることがわかりました。山中らは試行錯誤を続け、最終的に、Sox2(ソックスツー)、Oct3/4(オクトスリーフォー)、Klf4(ケーエルエフフォー)、c-Myc(シーミック)という4つの遺伝子だけを体細胞に導入すれば、ES細胞に似たものができることを突き止めました。

ちょうどそのころ、「ファン・ウソク事件」が発覚し、彼らはより慎重に再現性を確かめることを余儀なくされたといいます。そのうえで研究結果を論文にまとめ、細胞生物学分野では定評のある雑誌『セル』に投稿し、2006年8月10日、同誌オンライン版に掲載されました。彼らはその細胞を「iPS細胞(induced pluripotent stem cell)」と名づけました。マウスiPS細胞の誕生です。

iPS細胞は当初、日本語名は「誘導多能性幹細胞」と紹介されていました。このときにプレスリリースやマスコミ報道で強調されたことは、胚を壊す必要があるという倫理問題を回避できること、患者自身の体細胞からiPS細胞をつくれば、それからつくられる移植用細胞も患者と同じ遺伝情報を持つので免疫機構による拒絶反応を回避できること、などでした。結果として、セラピューティック・クローニングにおける卵子採取の負担が女性に偏ってかかる、という生命倫理的な問題も避けられることになります。

すぐに「ヒトiPS細胞」の開発競争が始まりました。しかし、ES細胞の生命倫理的問題と医療技術的問題はiPS細胞によって克服される、したがってES細胞はもはや必要ない、と考えるのは早合点です。

ヒトのiPS細胞が作成されるのは時間の問題だった2007年10月、山中はほかの有名な幹細胞研究者や生命倫理学者と共同で、iPS細胞があるとしてもES細胞研究の重要性が失われるわけではない、という声明を発表しました。当然ながら、ES細胞とiPS細胞のどちらが医療技術としてより有益かどうかはまだわかりません。iPS細胞を厳密に研究するためにはES細胞との比較がどうしても必要でしょう。

ES細胞では、マウスでの作成成功からヒトでの作成成功までに17年もかかったのですが、iPS細胞では、約1年しかかかりませんでした。山中らは、ヒトの体細胞(皮膚細胞)を使ってiPS細胞の作成に成功したことを、2007年11月20日、『セル』オンライン版で報告しました。このときにはiPS細胞の日本語名は「人工多能性幹細胞」と紹介されました。

興味深いことに、ヒトのES細胞を初めて作成したことで知られるアメリカのジェームズ・トムソンらも、ヒトのiPS細胞の作成に成功したことを、まったく同日の『サイエンス』オンライン版で報告しました。『サイエンス』側が発表日を異例的にずらしたといわれています。トムソンらは、山中らとは異なる遺伝子を導入していました。しかもマウスでは行なわず、最初からヒトの体細胞で実験したようです。

ES細胞研究に批判的なローマ法王庁はiPS細胞を、胚の利用に関係した倫理問題として扱うべきではない、という見解を、通信社などを通じて伝えました。同じくアメリカのブッシュ政権(当時)は、iPS細胞を「倫理的な幹細胞(ethical stem cell)」として歓迎しました。

こうしてiPS細胞は華やかに登場しました。「iPS細胞によって、ES細胞の生命倫理的問題は解決された」と語られることもありますが、本当でしょうか? 次回はiPS細胞の展望と、新たに生じうる問題についてお話します。

Written by 粥川準二(かゆかわ・じゅんじ)

1969年生まれ。ライター・編集者・翻訳者。日本大学、明治学院大学、国士舘大学で非常勤講師も務める。著書『バイオ化する社会』(青土社)など、共訳書『逆襲するテクノロジー』(E・テナー著、早川書房)など。博士(社会学)。


元記事は▶▶幹細胞とは何か?(6)iPS細胞の登場

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