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世界中の人たちに"Real Japan"を伝えたい -- 真田ありささん

2016年01月04日 18時38分 JST | 更新 2017年02月02日 18時12分 JST

新年明けましておめでとうございます。旧年中は私共My Eyes Tokyoの記事をご愛読くださり、また私共の活動をご支援くださり、誠にありがとうございました。本年は更なる飛躍を目指し、世界から日本にいらした個性豊かな方々の声を聞き、皆様に届けて参りたいと思いますので、変わらぬご愛顧のほど何卒宜しくお願い申し上げます。

さて今回は、My Eyes Tokyoでも意外に珍しい、日系アメリカ人とのインタビューをお送りいたします。

Nagomi Visit(ナゴミ・ビジット)。東京を拠点とする、世界60カ国近くの人たちが利用する"ホームビジット"のサービスを運営するNPO法人です。この団体の副理事を務めるのが、今回のお相手である真田ありささんです。

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撮影:小林潤

"ホームビジット"とは、旅行者などを一般家庭に招き、その家が日頃提供する食事を一緒に食べながら2〜3時間という短時間の交流をする体験だそう。宿泊を伴うホームステイよりもホスト(旅行客を迎え入れる側)の負担は軽くなるとのこと。つまり異なるバックグラウンドを持つ者同士の触れ合いを、ホームステイよりも低いハードルで体験できるのです。

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写真提供:Nagomi Visit

2011年9月のサービス開始以来、世界5大陸から約3,000人が参加、日本在住ホスト数も600組を超えています。大都市圏を中心に日本中あまねく、正真正銘のリアルな"世界への窓"を普及させているNagomi Visit。副理事である真田ありささんがホームビジットの伝道師になった背景には、長きにわたる自身のアイデンティティとの壮絶な闘いの歴史がありました。

*インタビュー@川崎

■ 日本が大嫌いだった

私がNagomi Visitに参加したのは2012年1月ですが、これまでの私の半生を振り返ると、Nagomi Visitとの出会いは偶然ではなく必然だったかもしれません。

私は日系2世として、アメリカのバージニア州で生まれました。私が生後5ヶ月の頃に家族でカリフォルニアに移り住み、4歳の頃にテキサスに引っ越しました。それ以来、私の家族はテキサス州ダラス郊外に住んでいます。私の記憶にあるのはテキサス以降の出来事です。

私の両親は1970年代、別々にアメリカに来ました。父は京都府舞鶴市出身で、日本でサラリーマン生活を送りたくないという理由で、アメリカで起業しました。父のビジネスターゲットとなり得る日本人やアジア人が多いカリフォルニアに留まらずにダラスに来たのは、マーケットの将来性を見越してのことでした。一方、母は東京の神田出身で、留学のために渡米しました。そして2人が出会って結婚しました。だから親同士が話していたのは日本語です。

英語を話さないと生きていけなかった大昔の日系1世と違い、70年代に渡米した1世はそこまで英語に固執する必要が無く、しかも日本も豊かになっていたから、日本にはいつでも帰ることができました。だから私には「日本語を勉強しなさい」「日本語補習校に行きなさい」と言いました。

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撮影:小林潤

でも私が子どもの頃は、私は日本が大嫌いでした。日本はあくまで"両親にとっての祖国"だと思っていたから、反発しかありませんでした。「私の国の言葉じゃないのに、何で勉強しなくちゃいけないの?」って。しかも私は一人っ子でしたから、家ではずっと両親と日本語を話していました。

私のような日系アメリカ人やアジア系アメリカ人は、テキサス州にも割と存在します。中でも多かったのはベトナム系や中国系、韓国系、インド系です。ただ例えば私が通っていた高校では珍しい存在で、全校で7人しかアジア系の子がいませんでした。だから周りとの共通点がなかなか見つけられず、寂しい思いをしていました。

そのうち、考えるようになりました。「私は日本人の顔をして、日本語もまあまあ話せる。でもそれって、中途半端ってことじゃない?」。私はアイデンティティ・クライシスに陥りました。「日本人でもない、アメリカ人でもない。じゃあ、私は自分自身を、一体何人(なにじん)だと言えばいいの?」みたいに・・・もちろん国籍上は私はアメリカ人ですけど、ハッキリと「私は○○人」と決めたくなったんです。

■ 緊張の夏 日本の夏

私は小学2、4、6年生の夏に茨城県の小学校に、中学1、2年生の夏に埼玉県の中学校に、それぞれ50日間ずつ通いました。両親から「あなたのルーツを勉強しなさい」と言われて送り込まれたんです。

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日本の小学校に通っていた頃。向かって右端が真田さん *写真提供:真田ありささん

当時はまだアメリカ人としてのアイデンティティが強かったから、抵抗感はすごくありました。「何で学校にエアコンがかかってないの?」とか「何で生徒が教室を掃除しなくちゃいけないの?」などと、いちいちイチャモンをつけていました。

一方で私は、他の子たちから"英語の人"と呼ばれて、他のクラスからも子どもたちが私のことを見にきたほどでした。普通の外国人よりは私の日本語能力は高かったと思いますが、時々日本語が出て来ずに英語が口から出てしまうので、そう呼ばれました。まるで動物園の檻に入れられた動物みたいでしたが(笑)でもいじめられたことはありません。

ちょうどその頃、私の実家ではよく、日本からアメリカの高校に留学する子たちをホームステイに受け入れていました。何年か受け入れていたのですが、一番最後に我が家にホームステイした女の子が同世代で、彼女から日本の音楽について聞きました。と言っても最新の音楽じゃなくて、チャゲ&ASKAだったんですけどね(笑)

そうするうちに私は、かつて反発を覚えていた日本に、興味を持つようになり、ルーツに目覚めました。親からではなく、同世代の子から、押しつけではなく普段の会話で日本の情報が入ってきた。それが大きかったのでしょうね。インターネットが普及し始めたこともあり、自分からいろいろと日本の情報を探すようになりました。

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「Real Japan」を制作していた19歳の頃 *写真提供:真田ありささん

■ 自分探しの旅

やがて情報を探すだけでは飽き足らなくなり、1996年、私は日本の最新情報を発信するサイト「Real Japan」を立ち上げました。私のアイデンティティの半分を占める日本を、他の人にも知ってほしいと思い始めたのが理由です。

アメリカでは小説『SAYURI』(原題:Memoirs of a Geisha)が発売されたこともあり"日本=ゲイシャ"のイメージが強くなりました。しかも学校の先生から、この小説を読むように薦められたんです。だから私は、日本のありのままの今の姿を発信したいと思った。その思いを「Real Japan」の名にこめました。日本の最新情報と一緒に、例えば日本の高校の教室の写真などもサイトに載せて発信しました。最初は私の周りの人たちに伝えるつもりが、やがて多くの人たちに読んでいただけるものになりました。

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2000年当時の「Real Japan」トップページ

サイトを運営している間に、大学を受験しました。選択基準は日本語プログラムがあり、日本の大学と提携していることでした。それまでは嫌いだった日本語を、自主的に勉強しようと思うようになりました。入学した大学では、専攻こそしませんでしたが、日本語の授業を履修しました。

そしてもっと日本を見るために、早稲田大学に1年間留学しました。それまでは誰かから日本のことを聞いていただけですから、自分の目で確かめたいと思った。それにアイデンティティ・クライシスに陥っていた自分にとって、"自分探し"の意味もあったのです。

小中学生の頃の日本での滞在はもちろん、早稲田への留学期間も、私にとっては満たされませんでした。だから私はアメリカの大学を卒業後、再び日本に来ました。敬語などビジネスで必要な日本語が話せなかったため、就職活動でいくつもの会社に落ちました。その末に、多言語でのウェブ制作や訪日観光客向けのマーケティングに携わる日系ベンチャー企業に入社しました。それ以来、意外に居心地が良くて(笑)日本で生活しています。

■ 長い闘いに終止符

その会社に6年間勤務し、世界一周旅行に出るために退社しました。私の中には「30歳になる前に、世界のことを知りたい!」という強い思いがあったのです。なぜなら私は、それまでアメリカと日本しか知らなかったからです。一方で私が在籍していた会社にはたくさんの国から来た人たちが働いていたし、情報発信先の国も多岐に渡っていました。だから私は、大学院に行くような感覚で世界一周の旅に出ました。

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タンザン鉄道(ザンビア) *写真提供:真田ありささん

私が絶対に行こうと思っていたのが、中東とアフリカでした。日々のニュースでネガティブな情報ばかりが流れてくるのが、その地域だったからです。それは私が抱いていた「リアルな日本を知りたい、発信したい」という思いと共通していました。

カウチサーフィンやFacebook、Twitterを駆使していろんな国を廻って滞在するうちに、1年間で訪問国数は60カ国に達しました。

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シャー・チェラーグ廟(イラン・シーラーズ)

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ペルセポリス(イラン)

*写真提供:真田ありささん

この世界一周を経て、私自身がようやく"ケリをつけた"ことがあります。それは、私自身のアイデンティティ・クライシスです。世界一周を経て完全に無くなったんです。自分はアメリカ人か、日本人か?という、自分の頭の中で小さいころから繰り返してきた議論に、ついに終止符を打ちました。答えは・・・

「どっちでもいいじゃん!」でした。「"私は人間"でいいんだ!」と思えるようになったんです。

世界一周する間に、私は日系人関連の博物館を全て回りました。ブラジル、ペルー、米フロリダ、ロサンゼルス・・・ありとあらゆる世界中の、日本と繋がりのある場所に行きました。さらに、各国でその国のマイノリティの人たちに会いました。彼らの悩みに触れ、共感し・・・そして吹っ切れたんです。

■ ホームビジットのアイデアにふるえる

私が世界一周をしていた間に、Nagomi Visitの構想を、現代表の楠から聞きました。彼女は私と同じ会社のすぐそばの席で仕事していて、彼女も会社を辞めてデンマークに行きました。そして知人の家に宿泊し、そこの家族と一緒に食卓を囲みました。その経験から、彼女はNagomi Visitのアイデアを得ました。

私自身は、帰国後はフリーランスで生計を立てようと思っていました。一方で楠が、日本人ホスト側4家族と共にNagomi Visitを立ち上げたのが、まだ私が世界一周旅行をしていた2011年9月。そんな折に楠から、ホストさん情報の翻訳を頼まれました。

お手伝いするうちにすごく興味が湧き、私は楠に伝えました。「もしあなたの活動で今後パートナーが必要だったら、サポートでも何でもやるよ」と。私たちはお互い得意分野が違っていたし、楠はホストである日本人の気持ちが分かる一方、私は訪問する外国人の気持ちが分かるなど、良い形でバランスが取れていました。それに私の家族がアメリカで日本からの留学生を受け入れていたり、私自身もカウチサーフィンで日本での旅行客受け入れホストをしていたことがありますしね。

こうして私は日本帰国後、2012年1月に正式にNagomi Visitに参加しました。

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■ 寿司や天ぷらがない和食体験

Nagomi Visitのご利用者の出身国は約60カ国に及びます。中でもアメリカ、オーストラリア、シンガポールからのご利用者が多いです。

また、海外から日本に旅行に来た人たちだけでなく、日本に住んでいる外国人もいます。彼らは、例えば日本人と接する機会が少ないエリアに住んでいたり、留学生で普段は寮生活をしているため、"普通の日本の家庭の食事"を体験したくてNagomi Visitに参加したりします。

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写真提供:Nagomi Visit

日本の普段の食卓では、にぎり寿司や天ぷらはそんなに出てきませんよね。お寿司でもちらし寿司や手巻き寿司が出てくるのが、日常の日本の食生活であり、それを体験していただけます。中にはすでに日本食に慣れ親しんでいる人が来て、逆にホスト側がその知識に驚くこともあります。

私たちがNagomi Visitを通じて皆様にご提供しているのは、国を超えた交流の"きっかけ"です。そこで仲良くなれば、独自に皆さんが連絡を取り合っていただくのは大歓迎です。もしかしたら「今後も私たちのサービスを使ってもらいたいから、個別に連絡を取り合うのは禁?