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大学入試は何のために存在しているのか。

2013年10月17日 01時08分 JST | 更新 2013年12月15日 19時12分 JST

政府の教育再生実行会議が、大学入試を「人物本位」にするため、全大学共通の「新テスト」を創設し、その成績を何段階かにランクづけして、2次試験ではペーパー試験以外の方法――小論文、面接などで選抜する「入試改革」を目指していると報じられている。

これに対する反発の声が強い。面接のように評価軸が明解ではない選抜方式では価値観がそこに紛れ込みやすいという問題は確かにある。評価者次第で評価がばらつくおそれがあるし、逆に、たとえば「公共心を測る」という名目で国家への忠誠心とやらが入試で一律に問われるようになったら受験に臨む若者を強く型にはめることにもなり、単に入試だけの問題ではなくなる。

そうした政治的意図まで懸念して提言に反対する人も少なくないのだろうが、この問題が厄介なのは、学力試験型入試が様々に限界に達しつつある事実もまた一方にあることだ。

たとえば今回の提言に先行して東京大学では2016年度入試から現在の後期日程に代えて推薦入試を導入する方針が春先に伝えられていた。そこに東大なりの悩みがあったのではないかという推測を、かつてWEBRONZAに書いた(「入試の不備を意識させた東大・京大の地盤沈下」)。というのも国際的な大学ランキングでの東大の順位は低迷している。 国内最難関大学として現在の入試制度で最も優秀な入学者を選抜して来たはずなのに、それでも地盤沈下が止まらないとしたら入試制度自体がうまく機能しておらず、むしろ優秀な学生をふるい落としているのではないか。おそらくそうした懐疑があり、今までの入試とは異なる選別の回路を作る必要性が意識され、結果として設けられたのがこの推薦制度なのだろう。

東大の場合、「特定の学問分野に対する強い関心」があり、「東大で学ぶ積極的な意欲を持つ者」を、より長い時間、生徒と接しているのでその資質を的確に見極められるだろう高校側に委ねて推薦してもらい、大学側はやはり面接を中心に受験生を審査をするとされていた。合格できた場合は早い時期から大学院の授業も受講できるように柔軟に対応して、その能力を更に伸ばしてゆくための受け皿も用意すると謳われていた。

進学校を経て大学受験まで進んできた、経歴においても偏差値においても均質性が高い学生を一堂に集めて、一様に教育する方法ではもはや世界で通用する才能は輩出できない。それが東大の教員たちの現状認識だったのであり、その突破のために期待されたひとつが推薦制度の導入であり、大学側としては面接を組み合わせることで、いわゆる「天才肌」の学生の確保が想定されていたのではなかったか。

この記事を書いた時にはエリート大学の議論しか出来なかったが、その一方で増加しつつある定員割れ大学にとっても入試に対する要求は変わって来ている。よほど経営体力がある大学以外では、少しでも割れ幅を減らそうと多くの合格者を出しているはずで、事実上「全入」になっているのが現実だろう。となると学力試験はもはや建前以上の意味がない。

しかし、ただ全入させるだけで教育機関としての責任を果たせるかという懸念は生じる。

たとえば入試が唯一の選抜の機会であり、そこをパスしてしまうと学ぶ動機づけが出来ないという説には一理ある。実際、入試を経験した学生とAOなどで合格し、入試を経験しなかった学生の卒業後の平均所得を比較した統計があるが(RIETI「大学入試制度の多様化に関する比較分析-労働市場における評価-」)、入試経験者の方が給与は高くなるという結果が出ている。給与水準だけで人生を測ることはもちろん出来ないが、入試という競争を経なかった学生がその後もより良い待遇を目指す挑戦を避けて生きがちである傾向を窺わせるひとつの指針にはなるだろう。

とはいえ人生がもしも入試の有無で決まってしまうとしたら、大学の存在価値などないことになる。挑戦への動機づけはそれこそ入学後の教育や大学生活の中でカバーすることもできるはずだ。

現在の18歳人口と大学の総収容定員の関係ではどうしても定員割れ大学が出てしまい、入試という競争を経ずに大学に入る学生は一定数いることになる。そんな学生に改めて挑戦の気概を与える責務が、学力試験型入試がもはや体をなさず、競争を知らずに育った学生を多く受け入れている大学でこそ求められるのだろう。その責務を果たすために大学が提供できる教員や設備などの教育リソースと照らし合わせ、自分達のもとで動機づけから始めて教育可能な学生かどうかを見極める機会として面接などの方法を利用することも必要ではないか。

この場合の面接は人物本位の試験という大袈裟なものではなく、当人の志望と大学側が提供できる教育内容のすり合わせなど「相性の確認」であり、大学側が早い時期に学生の実情に触れて教育内容を最適化する準備を始めるための調査の機会でもある。そうした位置づけであれば、属人的なブレを回避しつつ面接で聞き取りを進めるガイドラインの設定もある程度は出来そうに思う。

だが、それでもペーパーテストのような正解がない面接ゆえに困難は残るだろう。そこでより重要になってくるのが追跡調査であり、その結果を踏まえた評価方法の鍛え直しだろう。

たとえばこの種の問題を考える時に筆者がしばしば参照するのがアメリカの教育学者R.M.ドーズの考え方だ。彼は受験生の経歴や資質など複数の要素を変数化して優秀な学生を選ぶアルゴリズムを作り出したが、それでもなお慢心せず、入学定員のうち一定の割合を、入試を経ずにランダムに合格させ(学生にはそうした措置があることはもちろん知らせない)、入学後に入試で選別された学生と、ランダムに入学を許可された学生の学力を密かに追跡調査して前者が後者を下回るようであれば選別方法自体を再検討することをあらかじめ入試制度に含める提案をしたという(佐伯胖『「きめ方」の論理』東京大学出版会)。ランダムに入学させる枠を作ることの倫理的な評価など問題もあるが、発想としては参考になるのであり、こうした批判的検証と改善のシステムを補えば面接方式についても、精度を一定程度あげてゆく可能性があると筆者は考えてきた。

そんな時期に教育再生実行会議の狙いが次第に輪郭をはっきりさせてくるというのは皮肉な巡り合わせというべきか。今の入試制度を変えなければならない大学側の事情と、入試制度を変えさせたい会議の思惑が形式的に一致してしまうところがもどかしい。ペーパーによる学力試験をしてもダメ、一方でペーパー試験離れに挑むと「アベデュケーション」への歩み寄りを求められかねない。こんなダブルバインド状況が存在していることこそ広く理解され、世論の圧力によって本当に学生と日本の未来のためになる入試改革を現実のものとして着地させたいものである。