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ドーラ強制収容所解放から70年 ナチスがV2号ミサイルを製造した地下工場

2015年04月15日 22時40分 JST | 更新 2015年06月15日 18時12分 JST

今年は、ナチスドイツのドーラ強制収容所が解放されてから、ちょうど70年目にあたる。アウシュビッツの名前を知っていても、ドーラの名前を知る人は少ないだろう。

私はノルトハウゼンの北西にあるコーンシュタインという丘に向かって車を走らせた。丘の中腹にあるトンネルに足を踏み入れる。真夏でも気温は8度前後。冷たく、湿った空気が顔に当たる。暗闇の中を10分も歩くと、天井の高さが7メートルほどのトンネルに着く。第二次世界大戦末期に、ナチスドイツが世界初の大型ミサイルV2号や飛行爆弾V1号を製造していた地下工場である。

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旧東ドイツに残る、V2号地下工場の跡(筆者撮影)

戦後この地域を占領したソ連軍が工場を爆破したので、トンネルはあちこちが落盤している。瓦礫の山の上に作られた通路を歩く。懐中電灯の光の中に、朽ち果てたミサイルの部品や、工作機械の残骸が浮かび上がる。錆び付いたV2号のエンジンも置かれている。壁に塗られた「44」という数字は、作業ホールの番号だ。天井までの高さが15メートルのトンネルもあった。ホールには10メートル近く地下水がたまっており、暗緑色の水面にトンネルの壁が映っている。

地下工場の全長は、15キロメートルに及ぶ。トンネルは、ドイツ統一後市民に公開されるようになったが、見学できるのは全体の5%にすぎない。その巨大さに驚かされる。

V2号は全長14メートル。1トンの爆薬を積み、音速で約300キロメートルの距離を飛行できる。ドイツの技術陣が世界で初めて開発したこの大型ミサイルは、今日米国やロシアが持っている大陸間弾道弾(ICBM)の原型だ。ナチスはV2号を「奇跡の兵器」と呼び、戦局を挽回するための期待をかけた。ドイツは約3200発のV2号をロンドンやパリ、アントワープに撃ち込んで2700人を殺害した。

ナチスドイツは、当初バルト海に面した北ドイツのペーネミュンデでV2号やV1号を製造していた。しかしペーネミュンデの製造施設は、1943年夏に連合軍の爆撃を受けて破壊された。このため、ナチスはドイツ中部のノルトハウゼン郊外にあった地下燃料倉庫を拡大して、ここにV2号などの工場を建設することにしたのである。

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V2号ミサイルのエンジンの残骸(筆者撮影)

1943年8月に始まった掘削工事には、強制収容所に拘束されていた人々が投入された。彼らは粉塵と排泄物の匂いが充満するトンネルの中で、寝泊りさせられた。何日も太陽の光を見ることなく、劣悪な環境の中で過酷な労働を強いられた人々は、病気と飢えでばたばたと死んでいった。

地下工場に通じるトンネルの西側に、広大な更地が広がっている。ここには、第二次世界大戦末期に「ドーラ・ミッテルバウ」という強制収容所があった。ナチスはこの収容所に拘束していた人々を、ミサイルの生産に投入したのである。いわば、「奴隷労働」である。

ナチスがミッテルバウ収容所に拘束していたフランス人、ロシア人、ドイツ人などの数は周辺の施設もあわせると、のべ6万人。その内の30%にあたる2万人が死亡している。

終戦の直前には、アウシュビッツなど東欧の絶滅収容所にソ連軍が迫ったため、ナチスは囚人たちを貨車でミッテルバウ収容所に移送した。栄養失調で痩せ細り、病気に苦しんでいた囚人たちは、「ドーラ」に着いても食べ物や薬品を与えられなかったので、次々に死んでいった。

収容所の跡地には、当時の建物はほとんど残っていない。第二次世界大戦後、爆撃で破壊されたノルトハウゼンの人々が収容所の建物を取り壊して建築資材として使ったからだ。地面に残る線路の跡や門の一部が、かろうじてここに収容所があったことを感じさせる。

完全な形で残っているただ一つの建物は、小高い丘の上にある火葬場である。疫病や飢餓で死亡した囚人は、この建物の中にある2台の焼却炉で焼かれた。しんと静まり返った火葬場の壁には、ここで死亡したフランス人やベルギー人の家族が犠牲者の名前を記したプレートが、貼り付けられている。

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ドーラ強制収容所跡に残る、遺体焼却炉(筆者撮影)

囚人たちが押し込まれたバラックは、収容所の西側にあった。現在その地域は、うっそうとした森になっている。収容所跡を訪ねても、この森まで足をのばす人は少ない。小道に沿って、建物の基盤やレンガの壁の跡が残っている。囚人たちが寝起きしていたバラックだけでなく、病棟、消毒室、親衛隊員向けの映画館の跡もあった。

美しいテューリンゲンの森に点々と残る70年前の建物の残骸が、ここで命を落とした犠牲者たちの墓標のように見えた。瓦礫が草木に覆われても、ここで行われた犯罪の記憶を忘却させてはならない。

保険毎日新聞連載コラムに加筆の上転載

(文と写真・ミュンヘン在住 熊谷 徹)

筆者ホームページ: http://www.tkumagai.de